見られたら効き目がなくなる神様
もうひとつは、禁教令が出されたあと、キリシタンの神様は決して他人に見せてはならないという厳しいタブーが課され、納戸のような薄暗く奥まった部屋に隠すように祀られてきたことがあげられる。はじめはキリシタンであることが発覚しないよう隠していたのであろうが、年月が経つうちにキリシタンであることを隠すという観念はしだいに薄れ、この神様は人に見られたら効き目がなくなる神様であるとか、人に見られるのを嫌う神様だと考えられるようにもなっていった。
調査をしていて、ご神体を見せていただきたいと相談すると、今まで家族や仲間にも見せたことがないといって断られたこともあった。平成、令和のこの世の中で、もう隠す必要もないのではといっても、それが先祖代々この宗教を守ってきたやり方なので、いまさらかえるわけにはいかないという。だれにも見せないというところにこの宗教のひとつの魅力があり、そのことがかえって秘かに守り続けねばならないという強いモチベーションになっているのかもしれない。
神道でも神社で祀っているご神体は決して披見してはならないとされている。開けて見たりすれば目がつぶれるといわれてきた。神様の本体はなにかということは、秘密のベールに閉ざされていたほうがかえってありがたみがある。秘仏も10年に一度御開帳されるからありがたいのであって、見たいときにいつでも見ることができるのであれば、そのありがたみも半減してしまう。すべてが白日の下にさらされてしまえば、浦島太郎の玉手箱のように煙とともに神秘の世界も消え去ってしまう。
人々が恐れたもの
今述べた二つの理由よりも、カクレが今日まで続いてきた大きな理由はほかにあるかもしれない。それはもし神様を捨てれば神様のバチ(罰)があたるのではないかというおそれである。彼らにとって隠された神秘的なカクレの神は本当に生きていて、その神に対する扱いによって幸不幸が左右されるという素朴なタタリ信仰が深く根付いているからである。
そのようなカクレの神のタタリを引き起こす最大の理由は、神を棄てる、すなわちカクレキリシタンをやめることである。組織解散によってもたらされるタタリへの恐れが、今日までカクレが続いてきた主たる要因ではないかと考えている(宮崎賢太郎『カクレキリシタンの実像 日本人のキリスト教理解と受容』吉川弘文館、2014年)。