小説家の遠藤周作は、「かくれ切支丹」たちは、毎年のように踏絵を踏み続け、神を否定した転び者(背教者)の子孫であり、デウスやキリストのような、男性の厳しい裁きの神へは恐れて近づくことはできず、優しい許しの神である母なるマリアの身代わりとして、マリヤ観音を拝んだのではないかと述べている(遠藤周作『母なるもの』新潮社、1971年)。
しかし、この解釈は少し理知的に過ぎるような気がしないではない。そのような複雑な心理的葛藤の末にマリアにたどり着いたのではなく、遠藤のようなインテリではない民衆は、罪や罰や裁きといったことよりももっと単純に、優しい母のイメージを求めて、マリアという名の観音様により親近感を抱いただけなのではなかろうか。
誰だかわからない「御前様」
長崎・外海・五島地区のカクレキリシタンの信仰対象の中心がマリヤ観音であるのに対し、平戸や生月島のそれは「御前様」である。御前様は俗に「納戸神」とも呼ばれてきたが、中国地方を中心とした西日本で広くみられる、納戸に祀られた家の神をさす民俗学の一般用語である。
地元で御前様といえば、ふつうは掛軸に仕立てられた人物像を指している。キリスト教の知識が少しあれば、これはキリストだとか、マリアを描いたものであろうとか、直ちに推測できようが、彼ら自身は先祖からなにも言い伝えられていないので、だれなのかはまったくわからないという。
具体的に目にみえる信仰対象として拝まれているのは次の写真のような素朴な人物像であるが、マリヤ観音にせよ御前様にせよ、どのような人物(神)なのか知らないのであるから、彼らが心から信じているものは別にあるのではないかと考えられる。
別のものとは何か、それは先祖である。これらの信仰対象は先祖が命がけで今日まで伝えてきたものである。彼らにとって大切なのは、それが何かではなく、だれが大切なものとして伝えてきたかということである。現代のカクレキリシタン信仰の根幹も、日本のさまざまな宗教の根底に普遍的にみられる先祖への思いである。
