国際化を求める声が高まり、教育や企業の現場で“英語公用語”化が進んでいる。だが日本国内で仕事や生活をしている以上、どこかで英語を日本語に訳す必要が生じよう。一方、日本製コンテンツの輸出に期待する動きもあり、こちらは逆に日本語からの翻訳が不可欠だ。しかし、英語と日本語の間の翻訳は、そもそもどこまで、どのように可能なのか。
牧野成一『日本語を翻訳するということ』(中公新書)は日本語学の碩学が翻訳の可能性と限界を理論的かつわかりやすく実証的に示す。
たとえば日本語では同じ言葉でも、ひらがなで表記されれば親しみを感じ、漢字、カタカナの順でよそよそしさが強まる。こうした文字による印象の違いは外国人には理解しにくいし、一通りの文字体系しかない英語に直訳するとニュアンスの違いが消失してしまうので、必要に応じて補ってやらなければならない。
鴻巣友季子『翻訳ってなんだろう?』(ちくまプリマー新書)は、翻訳家の著者がカルチャースクール等で実施した講義内容を凝縮させた一冊。そこで翻訳家に必要な資質として、異文化に対する知識と興味、不明点を放置しないリサーチ力が挙げられている。確かにそれらが伴ってこそ、たとえば日本語と英語の文字体系の違いに基づく翻訳不可能性のような言語レベルでの困難を超えてゆく道が開かれるのだろう。
今回の三冊目は『漱石と朝日新聞』(朝日新書)。偉大な文豪は翻訳を考える時にも多くを教えてくれる。著者・山口謠司は正岡子規の写生文の考えが漱石の「目」を開かせ、国語学者・上田万年の言文一致主義がその「耳」を開かせたと指摘する。こうして話し言葉の音で見たままに書く近代日本文学の標準日本語を確立し、新聞メディアを通じて広めた漱石は、一方で英語論文や漢詩も自在に書ける稀代の国際的教養人だった。
つまり漱石は異文化に対する知識、興味、リサーチ力に富むという翻訳者に適した資質の持ち主であり、世界と触れつつ、自分の文学を鍛えることができた。そんな彼の文学を、困難を超えて訳そうとする翻訳家が現れ、結果として漱石作品は世界文学となってゆく。
こうした漱石の存在は国際化や翻訳を、ただ外国語の技術と考える浅薄さに気付かせてくれる。本コラムに引き寄せた言い方をすれば、新書のラインナップに示されるような幅広い教養を背景に踏まえられているかが、翻訳においても国際化であっても成否を分ける。そんな事情を忘れるべきではないのだろう。