そんな時、パリに衝撃的な人物が現れる。

「私こそ、偉大なるピョートル大帝の孫娘、タラカーノヴァである」

ピョートル大帝といえば、ロシアを列強に押し上げた伝説的皇帝。その直系の子孫を名乗る女性の出現は、エカチェリーナにとって悪夢だった。

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真偽は不明だった。しかしこの話が本当なら、正統な血筋を持つ彼女こそが真の皇帝だと主張する者が必ず現れる。

絶対君主エカチェリーナ2世の決断

エカチェリーナの決断は迅速かつ冷酷だった。タラカーノヴァを騙して捕らえ、ペトロパヴロフスク要塞の地下牢に幽閉した。

そして1777年、運命の日が訪れる。

ネヴァ川が氾濫し、要塞全体が浸水した。

地下牢の囚人たちには、逃げる術がなかった。

この絵が描くのは、まさにその瞬間だ。

逃げ場のない恐怖を描いた名画

かつて皇女を名乗った女性が、ネズミと共に溺死を待つ最期の時。窓から流れ込む濁流、上昇する水位、そして逃げ場のない恐怖。

公式記録では、タラカーノヴァは「病死」したことになっている。しかし、この絵が制作された19世紀には、誰もがその「真実」を知っていた。

なぜ皇女は水没する牢獄にいるのか?

それは、権力者にとって「正統性」を主張する者ほど危険な存在はないからだ。

真偽などどうでもいい。脅威は排除する。それが権力の論理だった。

豪華なドレスは、彼女がかつて名乗った高貴な身分の名残。

しかし最期は、ネズミと共に汚水に沈む運命だった。

この絵は、権力闘争の非情さを描いた、ロシア史の暗部なのだ。

井上 響(いのうえ・ひびき)
美術史ソムリエ、クリエイター
東京大学文学部人文学科美術史学専修卒。「美術館が2割面白くなる解説」というTikTokアカウントをメインに、西洋絵画の背後にある物語や美術史を誰でも楽しめるように発信。2025年5月現在、SNS総フォロワーは19万人を超えている。著書:『美術館が面白くなる大人の教養 「なんかよかった」で終わらない 絵画の観方』(KADOKAWA)。
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