1980年代から映画監督として活動してきたニナ・メンケスは、自身の講演「セックスと力:映画の視覚言語」の中で映画史に横たわる「メール・ゲイズ=男性のまなざし」を検証し、ヒッチコック、タランティーノ、キューブリック、ゴダール……誰もがその名を知る監督たちの作品においても「女性が力を持たない客体化された対象として映されている」という法則を浮かび上がらせた。

 2019年には女性どうしの視線によって鮮烈な世界を立ち上がらせたセリーヌ・シアマ監督の『燃ゆる女の肖像』が「カンヌ国際映画祭」で脚本賞とクィア・パルムの2冠に輝き、「フィメール・ゲイズ=女性のまなざし」を映画の中へと取り戻さんとする実践が決定的に印象づけられたように思う。

©︎ Fabian Gamper - Studio Zentral

 そしてこの春、ギャガによる新たな映画レーベル「NOROSHI」の第2回配給作品として公開される『落下音』も、まさにそのような系譜に連なる作品ではないだろうか。世界40以上の映画祭で既に上映され、高い評価を受けてきた同作は、北ドイツのとある農村で違う時代を生きた4人の女の記憶をひとつの呼吸の中で描き出す物語だ。

ADVERTISEMENT

まなざしにひれ伏すことを望まなかった女

 よく視線に気づかないふりをした/考え込んでいるかのように

 だけど本当は/人が私を見るのを私も観察していた

©︎ Fabian Gamper - Studio Zentral

 そう語るのは、1980年代を生きたアンゲリカ。泳ぎの練習をしにきた川で彼女が陸に上がると、濡れた水着姿を、寝そべった叔父と従兄弟がじっとりと見つめている。その視線は腕時計に反射した光として可視化され、隠されるどころか堂々と彼女の体を舐め回す。前述の台詞が示すようにアンゲリカはそのまなざしにひれ伏すことを望まず、別シーンでは自らTシャツをたくしあげ、胸部を鏡ごしに見せつけるなど、見つめられるだけの存在には成り下がらない。しかしそれでも、耐えがたい無力感は徐々に蓄積し、彼女は時おり死を夢想するようになる。この村では死者が出るとその体を女が拭き、目の上に「邪悪な視線を防ぐ石」をのせる習慣があるのだった。劇中に度々挿入される、誰のものとも判然としない視線は、時代や生死など、幾重にも絡まりあった境界線に揺さぶりをかけていく。