1990年(平成2年)の5月12日に起きた幼女殺害事件、通称足利事件。

 この事件で無実の罪を着せられ、無期懲役の判決を受けた菅家利和さんは、2010年に再審で無罪の判決が出るまで10年の獄中生活を送った。

 この冤罪事件で、宇都宮拘置支所にいた菅家さんと言葉を交わし「この人が女児誘拐殺人犯? そんなはずはない」と確信を抱いたというのが、元刑務官の坂本敏夫氏だった。

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 祖父から3代続けて刑務官を務めた坂本氏が指摘する「日本司法の問題点」とは……。

菅谷利和さん ©時事通信社

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 坂本敏夫は、1991年(平成3年)8月より、栃木県大田原市の黒羽刑務所(2022年3月閉庁)に会計課長として赴任する。法政大学を中退し、父親の跡を継ぐ形で刑務官になってから、24年が経過していた。

 何度も日本の司法に失望しかけてはいたが、ぎりぎり踏みとどまっていたのは、周囲にまだ信じられる同僚や上司がいたからである。ところが、黒羽に就いた翌年に決定的なことが起こる。

 1992年、黒羽刑務所で支所長会議が行われた。支所長会議とは、3か月毎に本所の課長補佐以上の幹部、並びに宇都宮・大田原・足利の3つの支所長を出席させて行われる刑務官会議のことである。

 その席上で宇都宮拘置支所長が、「報告がある」としておもむろに立ち上がった。「DNA鑑定結果を受け、幼女殺害の罪を自白して収容中だった足利事件の被告人、菅家利和が公判で否認に転じました」坂本は耳を疑った。

坂本敏夫氏 ©文藝春秋

 足利事件とは、この2年前の1990年(平成2年)の5月に起きた幼女殺害事件のことである。同月12日、栃木県足利市のパチンコ店に父親と来ていた当時4歳の女の子(松田真実ちゃん)が行方不明となり、捜索の結果、渡良瀬川河川敷から遺体で発見された。女の子は全裸の状態で見つかり、川底からはスカート、精液が付着した下着が発見されている。

張りついていた刑事は家庭ゴミ袋を漁り使用済みティッシュを…

 警察は、市内で1人暮らしをしていた独身男性で幼稚園のバス運転手をしていた菅家利和さんを犯人と目し、1年以上、私服刑事による尾行を続けていた。しかし、真面目で清廉な生活を送る菅家さんからは何も出て来ず、別件逮捕の糸口すら見つけられない状態であった。事態が動いたのは、1991年5月、警察庁が来年から、犯罪捜査にDNA鑑定を正式に導入すると発表した直後だった。

 張りついていた刑事は菅家さんが捨てた家庭ゴミ袋を漁り、そこから使用済みティッシュを持ち帰り、犯人の精液が付着した女の子の下着とともに科学警察研究所(以下、科警研)に送り、DNA鑑定を依頼した。すると科警研は、菅家さんの精液と犯人のそれのDNAは同型であったとの鑑定結果を出したのである。この鑑定は、方法も実施自体も未熟で、結果が間違っていたことが後に判明するが、焦っていた栃木県警は、1991年12月1日朝7時、菅家さんの自宅を急襲する。

 刑事は、任意同行でありながら、暴力を振るって強制的に連れ出し、すでに朝刊には「今日、足利事件の重要参考人の事情聴取」という見出しが踊っていた。DNA鑑定導入の予算確保のために警察庁がマスコミ各社にリークしていたのだ。取調官には、この新しい捜査の予算を取るために必ず自白させろ、という命が下っていたという。

 突然、足利警察に連れて来られた菅家さんは最初はやっていないと否認をしていたが、有罪ありきの過酷な取調べに耐え切れず、その夜、女の子の誘拐と殺害を「自白」によって認めた。菅家さんは、翌2日未明に逮捕され、わいせつ目的誘拐、殺人、死体遺棄の罪で宇都宮地方裁判所に起訴された。

 栃木県警幹部は、早々に会見を開き、「粘り強く執念の捜査を続けて来ましたが、捜査本部開設569日目にして本事件の被疑者を逮捕することができました」と誇らしげに宣言していた。