坂本は支所長会議から、しばらく後、支所の現金出納、物品管理等の内部監査で宇都宮拘置支所を訪れた。目的は被告人だった菅家さんを視察することだった。菅谷さんの所在を確かめると、本人に近づき、言葉を交わした。印象は明確だった。
〈この人が女児誘拐殺人犯??そんなはずはない〉
坂本は強烈な違和感を感じていた。それまで多数の凶悪犯罪者や死刑囚と面接をした経験に基づく直感であった。「いろんな性犯罪者も見て来ているが、それとも違いました。おどおどしていて、私が声をかけたときには、また偉い人に虐められるのではと思われたのか、びくりとされていたので、落ち着かせました」
口数も少なく弱々しい視線と振る舞い。坂本は真犯人はこの人ではなく、必ず他にいるはずだと考えるに至った。
1993年4月1日、坂本は広島拘置所への転勤が決まり、黒羽刑務所を去ることとなった。「菅家さんのことを考えると広島に行ってからも心配で仕方がなかった」その心配は当たる。
支所長会議からおよそ1年後の1993年7月7日、菅家さんに宇都宮地裁は無期懲役を言い渡した。自白を否定し、無実を主張するもDNA鑑定が菅家さんの有罪を決定的にしたのである。
「代償性小児性愛者であるとの精神鑑定も出ていると聞きましたが、それは違うと思いました。捜査員の聞き込みで菅家さんの離婚経験が分かると、大人の女性の代用に幼女を使っているとか。上智大学の福島(章)教授が鑑定人としてそれを権威づけていましたが、酷い偏見と先入観の扇動ですよ。菅家さんは極めて大人しく内気で真面目な普通の男性だと私は見ていました」
足利事件については捜査員のみならず、調査報道を始めた多くの記者たちも菅家さんの周辺を取材し始めていたが、そのほとんどすべてが、優し過ぎるほどの人柄で、いかに大人しい人物であるかという証言ばかりであった。逮捕された日も菅家さんは勤め先の幼稚園の保母さんの結婚披露宴に招かれており、それを楽しみにしていたという。
また事件が報道された新聞を読んだ菅家さんが、犯人に対して心底怒りを露わにしていたのを勤め先の幼稚園の職員たちが見ていた。しかし、これも検察側はカモフラージュだと主張した。坂本は絶対にそれは違うと思っていた。殺人を犯しておきながら、そんな狡猾な計算ができるような人物には到底見えなかった。
「菅家さんのような人にとって刑務所は地獄になるだろうと予測し…」
一審で無期懲役という判決が出た。日本の司法の現実からは、高裁で無罪になることは極めて難しい。
「私は菅家さんのような人にとって刑務所は地獄になるだろうと予測し、いたたまれない気持ちになりました」
弁護団が何度も新しい証拠を出しながらもこの酷い冤罪事件がいかにして進んでいったのか、順を追ってみる。それは悲しいほどに坂本の予想をなぞっていった。菅家さんの初公判は1992年2月であるが、同年の12月に学術集会が行われ、「このDNA鑑定法には重大な欠陥がある」と指摘している。
当時の有罪根拠となったDNA鑑定は、MCT118法というやり方が採用されていたが、信州大学の研究チームがMCT118法で使われた123マーカーは不正確であるという判定を出したのである。
DNAは4種類の塩基が鎖状に並ぶ高分子で、この塩基の並んだ順番で特定する。しかし、MCT118法の特定は、マスコミが絶賛したような100万人に1人という精度ではなく、1000人に1人という粗雑なもので、しかも実際には、正確に写真が取れておらず、方法論としても技術的にも失敗した鑑定結果であった。
殺人犯人を特定するという、いわば人道、人権に関わる大きな問題であり、判決前に出された学術界からの指摘は極めて重要なものであった。問題をひと言で言えば、当時、科学鑑定としてまだ成立していなかったDNA型鑑定を犯人識別の根拠としてしまったことにあり、それに対して学界は声をあげたのである。
それにもかかわらず宇都宮地裁は93年7月に無期懲役を言い渡した。裁判所は検察の嘘を見抜く力が無かったと言える。93年8月に科警研は鑑定法の欠陥を認める論文を発表した。まるでこの有罪判決が出るのを待っていたかのようである。そして科警研は、鑑定法の欠陥は認めたが、事件における過ちは認めなかった。
