実際、菅家さんはそれを期待し、二審判決の2日前に行われたジャーナリストの小林篤氏との拘置所での接見では、「ここを出たら、何がしたいと弁護士さんに聞かれたので、寿司を食べたいと答えました」という。しかし、その拘置所は、この前から菅家さんの防御権を排除していたのだ。
「押田教授の検査結果が出たときもそうです。正しい鑑定を出したのに採用しなかった。毛髪を確認するか、すぐに再鑑定させれば済むことだった。そこから12年も刑務所に入れられていたんです。執行停止での釈放は検察の罪の意識に他なりません。執行停止するというのは本当に大変なんですよ。私も他施設で庶務課長のポストに就いていたときに、何度か重い病気の服役者のために執行停止をお願いに行ったことがあるんですが、一切聞き入れられなかったです」
「なぜ自白してしまったのか?」という問いへの苦しい答え
2011年に坂本は、無罪となり釈放された菅家さんと対談する機会を得た。拘置所にいた頃から、大人しく弱々しい印象を受けていたが、20年ぶりにあった菅家さんは、同じ人物かと思うほどに疲弊していた。
「すっかりお爺さんになられてしまっていた。私は刑務官のOBとして千葉刑務所時代の話を聞きたかったんです。本当に地獄だったのです。栃木県警の取り調べ時の様子、自白に至った状況も聞きました」
なぜ自白してしまったのか? という坂本の問いに菅家さんはこう答えた。
「怒鳴られ、脅されて一刻も早くこの苦しみから逃れたかったのです。認めると、刑事が急に優しくなって乱暴を止めるので、調書も刑事と一緒に話を作りました。犯行をしていないので、ただ刑事がこうだろう? こうして殺して、こうして乱暴したのだろう? というのに頷くだけです。悔しかったのですが、乱暴を止めてもらいたくて、こう書いた方がいいですよ、つじつまが合いますよ、と修正もしました」
菅家さんは「二回、三回と射精し、自分の精液を(被害者の幼女に)かけるなどのいたずらをした」というような屈辱的な虚偽の犯行調書を刑事によって作らされていた。
坂本は菅家さんの顔を見ると、何度もあの支所長会議の事が思い起こされ、公判で初めて真実を主張したときのことも聞いた。
「裁判所で自白を否定し、無実の主張に転じてから、拘置所に戻ると、血相を変えた検事が飛んできて激しく怒鳴られ、脅されたそうです。私にはやはりという印象しかありません」
それは法務省という役所の特徴であった。
「検察は絶対的司令塔です。戦前は判事の上が検事ですから。今も所長が一介の検事にペコペコしているんです。法務省の高級幹部ポストには検事が充てられている。行政職員であるキャリアの上に検事がいるのだ。矯正局長に充てられた検事は地方検察庁のトップ・検事正から検事総長に進んでいくポストでもあった。したがって刑務所長が検察を批判する冤罪を疑うことは口にも出せない」
坂本は1994年3月31日付で刑務官を退官している。菅家さんが、宇都宮地裁で無期懲役判決を受けた半年後である。
坂本にとって足利事件は「今の刑務所は変わり様がない」ことが確信に変わった事件であった。
「菅家さんのことは退官後もずっと気にしていました。菅家さんが逮捕された2週間後にお父様が亡くなり、お母様も釈放される前に逝去されました。息子の無罪を知ることが出来なかったのです。私自身は、刑務官半生の中で次のポストは所長あたりになるんですけど、自分が所長になってももう何もできないと分かってきたんです。中央官庁にコントロールされて所長が更生に力を入れたいと考えても改革ができない。私が父の意志を継ぐかたちで入った頃は、所長も立派な人たちがいました。しかし、現場を知らない、服役者に何の愛情も注げないキャリア官僚が天下るように入ってくるようになって更生の精神は崩れました」
その職務に誇りを持っていた親子三代の刑務官は、坂本の代で終わりを告げた。