そして、鈴木はジュニア・オールスターに選出され、同点で迎えた8回に中村紀洋(近鉄)の代打で登場すると、ライトスタンドへ決勝のソロアーチを叩き込むのだ。ぺろりと舌を出してベースをまわる18歳の背番号51。驚異の新人は9回にもセンター前ヒットで出塁するとすかさず二盗を決めてみせ、文句なしのMVPに選ばれた。パ・リーグの露出が少なく、動画配信もYouTubeもなかった時代、この試合はテレビ東京で中継されており、いわば多くの野球ファンが「鈴木一朗」という逸材を初めて映像で確認した夜でもあった。

オリックス・ブルーウェーブ所属時代のイチロー ©文藝春秋

 日常生活も、常に野球と隣り合わせだった。先輩たちが、飲みに出かけて寮に深夜に戻ってくると、室内練習場からマシン打撃の音が聞こえてくる。納得するまで、ひたすら打ち続ける鈴木がそこにいた。プロ1年目、一軍では40試合の出場で打率・253。ウエスタンの打率ランキングでは2位以下に4分以上の大差をつけて、トップを独走し続けた。終わってみれば、238打数で87安打を放ち、打率・366で1960年の高木守道(中日)以来の高卒新人での首位打者を獲得する。ベースボール・マガジン社選定の「ビッグ・ホープ賞」にも、巨人のドラフト1位右腕・谷口功一とともに選ばれた。

振り子打法を貫いて

 だが、ウエスタン・リーグでどれだけ頭抜けた結果を残そうと、土井正三監督をはじめとした一軍首脳陣は、鈴木のフォームを改造しようとしていた。土井監督は「太くて短いバットで地面に叩きつけろ」と俊足を生かして内野安打を狙うダウンスイングを求めたが、二軍の河村健一郎打撃コーチは「俺が責任を持つから無視しとっていい」とアッパー気味のレベルスイングを続けさせた。

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 2年目の3月にオープン戦の阪神戦でホームランを放つも、当時の一軍打撃コーチは「鈴木は一番にピッタリだと思っていたんだが、どうもあっさりと凡退するケースが目立つ。今の状態だと、一番は苦しいね」と四球が少ない打撃スタイルに苦言を呈した。1993年の開幕戦は、「九番・中堅」でスタメン出場。2戦目には「一番・中堅」で起用されたが、やがて左投手がマウンドに上がるとまったく出番がなくなり、代走での途中出場が多くなっていく。