2024年6月20日、第9期叡王戦最終局に伊藤匠七段(当時)が勝利し、全冠を保持していた藤井聡太から初めてタイトルを奪取した。社会的にも大きな注目を集めた一戦の後に、伊藤の兄弟子である斎藤明日斗六段が語ったこととは――。

斎藤明日斗六段

斎藤明日斗 6月20日のこと

「とりあえず落ち着こう」

 斎藤明日斗はそう思った。そして一人暮らしの部屋を掃除し始めた。台所周りをきれいに洗い、掃除機で埃を吸う。溜まっていた洗濯を済ませ、一つ一つを丁寧に干していく。そうしながら頭の中で、ABEMAの中継で観た出来事を振り返った。

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 叡王戦第5局、勝ったのは同門で弟弟子である伊藤匠だった。小さい頃から師匠の教室で共に将棋の研鑽を積んできた。

 当時の三軒茶屋の教室では、席主の宮田が口の字形に組んだ机の中に入り、同時に20人から30人の子どもたちの指導をしていた。斎藤は宮田が自分の前に回ってくるまで、他の子たちの様子を眺めている。宮田はほとんどの子にはダジャレを言って、ニコニコしながら相手をしていた。だが、ある少年の前では立ち止まる時間が長く、口調も明らかに厳しい。その少年は斎藤より4歳下の伊藤匠だった。

「あの子には何かあるんだろうな」

 子ども心にそう感じられた。

 その彼が、タイトル戦無敗を続けていた絶対王者から叡王を奪取した――。

弟弟子に対する複雑な想い

 同門として喜ぶべきことだが、すぐには気持ちの整理ができない。

「一度冷静になろう」

 酒を飲みに行くことも考えたが、「ハイスペックのパソコンを購入したばかりだし、節約しなければ」と自分に言い聞かせる。それに、誰に何を話せばいいというのか。

「こんなときに騒いだら、格好悪いだけですから」

 親しい棋士たちも同じ気持ちなのか、誰からも連絡は入らなかった。

 この日は昼間に研究会があった。午後4時頃に終わり、叡王戦第5局の経過を観ると、藤井叡王がやや優勢な局面だった。LINEに師匠の宮田利男八段からのメッセージがあった。

「教室に報道陣がすごいから、来られるか?」

 対応で大変なのだなと思った。だが、今の自分が行っても、メディアの前でうまく話せる気がしない。師匠には申し訳なかったがまっすぐ帰宅した。