最初で最後の対局をした

 その年の8月9日、全日本プロトーナメント2回戦で、私は村山と対局した。奨励会入会から12年近く経っての初対局で、これが唯一の対戦となった。

 相矢倉で後手の村山が雀刺しから猛攻してきた。必死に受けるが、村山の攻めのセンスは私とはまるで違う。これが才能の差かと絶望したが、それでも死に物狂いで粘った。

 持ち時間3時間のうち、私の消費時間は2時間55分、村山が2時間58分。特別対局室は窓が大きくて日当たりがよく、暑かった。私は半袖シャツだったが、村山は長袖シャツで、腕まくりもしなかった。

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 まさかこの3年後に会えなくなるとは、夢にも思わなかった。

 1998年。この年は森信雄一門にとって、広島将棋界にとって、いや、将棋界全体にとって大きな意味を持つ年だった。山崎隆之が17歳で四段に上がった年、糸谷哲郎が9歳で奨励会に入会した年、そして村山聖が29歳で亡くなった年だ。

持病のネフローゼのことも知らなかった

 8月の暑い日の朝、新聞で訃報を知り、「バカヤロウ」と呟きながら泣いたことを覚えている。なぜそう呟いたのかもわからない。同世代の「死」など意識することなどなかったので、余計にショックだった。

 そのときの私は、村山の病のことを何も知らずにいた。のちに、元『将棋世界』編集長で小説家の大崎善生さんが執筆した『聖の青春』を読み、初めて持病のネフローゼも、ガンのことも知った。あれだけ順位戦に、名人に、執着していた理由も。

 そうか、小さいときから「死」を意識していたからこそ、「人が死なない」推理小説だったのか。

 そして時は流れ2026年4月8日、村山の弟弟子が名人戦の舞台に立った。森信雄門下初の名人挑戦だ。