「村山さんに負けなければ、藤井システムは生まれなかった」

 藤井猛は「村山さんとは3局しか戦っていないんだけどね」と言いつつ、藤井システム誕生にまつわる話をしてくれた。

「居玉のシステムにチャレンジしようと思ったのは、1995年11月に銀河戦で深浦康市九段の居飛車穴熊に惨敗した後です。照準を定めていたのは、先手番とわかっている順位戦の井上慶太九段戦(1995年12月22日、藤井システム1号局)でした。居玉は後手では無理だと思っていたから採用するつもりはなかったんです。

 ただ、その前の12月11日に村山さんと王位戦での対戦がありました。これが初対戦でした。後手になったので四間飛車にして7一玉型に。端歩も左銀の移動も省略して飛車を6筋に回り、穴熊に組まれる前に攻めた。だけど、これだけ駒組を工夫したのに勝てなかった。

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藤井猛九段の代名詞といえる四間飛車戦法 ©︎文藝春秋

 やっぱり穴熊相手に7一玉ではダメだ。もう省くところは玉の移動しかない、居玉しかないと、この敗戦が後押しした。王位リーグ入りがかかった一番だったから、もし先手だったら居玉を採用していたかもしれない。

 それでも負けていたら(居玉のシステムを)やめていたかもしれない。また逆に村山さんに7一玉型で勝っていたら居玉にチャレンジしようとは思わなかったかもしれない。だから、負けたけれど良かったなと、糧になったと思っています」

 すごい話じゃないか。

「終わった後、観戦記者の田辺忠幸さんと村山さんと3人で居酒屋に行って、そこで村山さんに『婚約おめでとうございます』と言われたのは覚えています」

 そう続けて藤井は笑った。

「もう書いてもいいんじゃないかな」

 『聖の青春』の大崎善生さんも、池崎和記さんも、田辺忠幸さんも、もう鬼籍に入られた。この場にいたら、今回の名人戦をどう描いたことだろう。

 私も村山との思い出を話し、「『聖の青春』があったから、今まで書かなかったんです」と言うと、藤井はしばらく考えた後、「もう書いてもいいんじゃないかな」。

 だから私はこうして初めて記している。