――さて、『空中庭園』の頃に話を戻しまして、この作品が直木賞の候補になってからは、どのような変化があったのでしょうか。
角田 『空中庭園』が直木賞の候補になったので、すべての小説誌から依頼がきたんです。みんな、「直木賞はうちで獲ってもらいたい」っていう気持ちがあるんですよね。前は1社ずつ1誌でやっていたんですけれど、今度は全部一緒にやったんです。全部引き受けて、全部連載を一緒にやりました。そのときは無意識のうちに、今までと違うことをやるので、まず今までと違うってことを意識しないといけないし、今まで頑張ってつけてきた筋肉じゃなくて、新しい筋肉をつけなくてはいけないから、量を書けば書くほど筋肉がつくだろう、という気持ちがあって。
――筋肉はつきましたか。ついたから今があるんでしょうけれど。
角田 ついたと思いますね。ただ、2006年には「筋肉がついたから、もう量はいい」と思ったんです。その時に黒井千次さんにも言われたんです。「もうそんなに書かなくていいから、次はひとつずつじっくり書くことを考えたらどう?」って。私もそう思っていたので、もう量はいいと思って、2006年くらいに「連載の量を減らす」というのをモットーにしたんです。でもそれから、実際に仕事を減らすのに10年かかりました。
――10年! なぜですか。2006年に決心しても、もう先の仕事が決まっているからですか。
角田 そうです。連載中のものもあれば、3年後に約束しているものもあったりして……。いい教訓でした。人はなにかをやめようと思ったら、10年かかるんだと(笑)。
――その2006年の前、2005年に『対岸の彼女』(2004年刊/のち文春文庫)で直木賞を受賞されますよね。ものすごく忙しいなかで書いたということですよね。
角田 そうでした。あれはすごく不思議な話なんですけれど、『空中庭園』が直木賞に落ちて文藝春秋の方たちが残念会みたいなものをやってくれた時、今はもう退職された寺田さんという方がそこでなぜか「角田さんさ、女社長書いたら?」って言ったんです。「え、なんでですか」と訊いたら「そう思っただけ」って。じゃあ女社長を書くかなと考えたんです。
「何の社長にしよう」と考え、前から書きたかったテーマと組み合わせたり、それにはもう1人女性が必要だなって………という感じで、どんどん決まっていきました。
――一方で角田さんは短篇集もものすごく多いですよね。短篇ひとつひとつ、ゼロから登場人物を作っていくのは大変な作業だという気もします。
角田 それこそ最初、30代半ばくらいまでは、短篇が上手くなりたかったんですね。きっと自分が短篇が好きだからだと思うんですけれど。ただ、短篇を書く機会が増えたのは、2004年、2005年以降は小説誌が、一気に書き下ろしで250枚とかを頼むよりも50枚を6回書かせれば確実に1年後に本ができるってことに気づいて、安易に作家にそういうことをさせるようになったことも大きいです。自分もそれに乗せられていたんですけれど。連作って最初に一貫したテーマを決めるから、楽だとも言えるんです。『おやすみ、こわい夢を見ないように』(06年刊/のち新潮文庫)だったら殺人は犯さないけれど、誰かを憎む気持ちみたいなものを共通のテーマにしたり、『ドラママチ』(06年刊/のち文春文庫)では「ワタシマチ」「コドモマチ」「ヤルキマチ」みたいに何かを待つことをテーマにしたり。