だが、過熱する受験戦争の緩和を目的に、特定の高校に志願することをできなくした「学校群制度」が1967年に導入されると情勢は一変。それまで東大合格者数で上位を占めていた日比谷、西、戸山、小石川といった都立高校は一気に凋落した。新宿高校も1970年以降、東大合格者トップ10に一度も入っていない。
新宿高校は1960年代後半に学園紛争が起こったことでも知られているが、激しくなるのは小川の卒業後だ。3学年下の塩崎恭久(元内閣官房長官)やミュージシャンの坂本龍一らは制服の廃止や受験偏重教育の是正を求めて校長室を占拠し、10日間のストライキを決行した。一方、自身を「革命戦士だった」と語っていた小川が学園紛争にのめり込むのは東大に入ってからである。
1968年春、1浪して東大理科二類に合格。将来は生物化学の学者になりたいと思っていた。だが、夢どころではない方向に小川は引っ張られていくことになる。
東大の学内はすでに風雲急を告げていた。医学生にタダ働きを強いるインターン制度に反対する医学部が決起。安田講堂を占拠すると、大河内一男総長は機動隊を導入し、学生たちを排除した。小川が東大に入学して2カ月あまりが経った6月半ばのことだった。大学当局のやり方に全学部が反発。東大闘争全学共闘会議(全共闘)が結成され、学園紛争は激しさを増していった。
左翼運動に見切り
小川はクラスの代表「自治会代議員」に選出され、全共闘に参加。ノンセクトの闘士として活動を続けていたが、しばらくすると学生運動に限界を感じだした。研究者への道も闘争に明け暮れる中で見えなくなっていた。東大に入って3年目、小川は中退を決断した。
ゴリゴリの左翼活動家と化していた小川は東大をやめると、横浜の港湾作業会社で働きだした。荷物の積み下ろしに携わりながら、労働者を組織化しようというのだ。しかし、状況を知るにつれ、次第に幻滅を覚えるようになる。港湾関連の労働組合は国政政党を支える下部組織になっていて、小川が考える革命とはほど遠いものだった。