「当時の飲食業は『水商売』と蔑まれ、優秀な大卒が就職先の対象にする業界ではなかった。したがって、他に目的を持ったアルバイトにポテンシャルの高い素材がいるだろう、教育は社員となってから会社でやればいいという考え方でした」

つまり、中退したとはいえ東大出身者である小川が求人広告を見て面接に来たこと自体、その頃の吉野家にとっては驚くべきケースだったのだ。

さて、吉野家本社で適性検査を受けた安部は、ちょうどアルバイトを始めてから1年後の1972年2月、正社員となった。小川より6年早い入社である。音楽の世界をあきらめた安部は松田社長からもっとも信頼される右腕となっていく。

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一代で売上1兆円の王国を築いた

倒産を見据え、その後の対策を練っていた筆頭株主の新橋商事や小川らに対抗し、松田社長は最後のあがきをしようとしていた。銀行取引停止処分(事実上の倒産)が科される1980年7月15日、松田は会社更生法の適用を東京地裁に申請するのである。

前出の安部の自著によると、その直前に松田のシンパ5人が集められ申請を告げられたが、誰も賛成する者はいなかったという。外食に適用されるとは思えなかったのである。

だが、はからずもこの申請が通ってしまった。新橋商事に近い関係者は「寝耳に水だった」と振り返る。きっと小川も同じ心境だったに違いない。

吉野家には保全管理人が入り、債権者は勝手に所有権の移転ができなくなってしまった。そこで新橋商事に肩入れしていた小川は吉野家の事業から完全に離れ、冒頭で触れたようにゼンショーを創業し、一代で売上1兆円を築く王国を率いた。一方、吉野家は1987年に更生債務を全額完済し、更生計画を完了。それから5年後、安部は社長に就任した。

その後、安部の吉野家、小川のゼンショー、ともに時代の荒波を乗り越え、成長していく。とりわけ小川は企業規模を拡大し、自身もフォーブスジャパンによる2025年版「日本長者番付」の上位50人の中にランクインし(5660億円)、週刊誌などに「高卒億万長者」のひとりとして報じられたこともある。