左翼運動に見切りをつけ、通信講座を受け始めた。東大の後輩の女性と結婚し、出産を間近に控えていた。生活費を稼ぐ必要に迫られ、中小企業診断士の資格を取ることにしたのだ。そんな時たまたま、新聞で吉野家の求人広告を目にした。

本社を訪れると、そのまま入社が決まった。1978年のことだ。「やはり東大の肩書は大きく、最初から将来の役員候補だった」と話すのは当時の吉野家の事情に詳しい前出の元業界紙デスクだ。入社2年目に早くも経理部次長に抜擢された小川だったが、吉野家に長くとどまることはなかった。

吉野家の倒産騒動に巻き込まれ独立

1980年初頭、吉野家は存続の危機に陥っていた。創業者・松田瑞穂社長による1970年代後半の急速な店舗拡大のツケがまわってきたのだ。過剰出店によって赤字店が続出。さらには、原材料の米国産牛肉の価格高騰が重くのしかかった。十分な量の牛肉が確保できず、松田社長は乾燥冷凍肉を使うという禁じ手に打って出る。当然ながら味は落ち、客離れが一気に進んだ。

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倒産が迫る中、松田社長と吉野家の3分の2の株式を握る不動産業者の新橋商事の間で主導権争いが繰り広げられていた。小川は新橋商事の側に取り込まれていた。片や、松田社長についたのが、のちに吉野家社長(1992~2014年)となる安部修仁である。

安部の経歴は、小川とはかなり異なるものだった。1949年9月、福岡県糟屋郡で生まれた安部は地元の県立工業高校を卒業すると、プロのミュージシャンを目指して上京。音楽業界に伝手はないので、いったんは印刷会社に就職した。

1年後、プロダクションに所属できたものの、キャバレー回りの日々。すっかり嫌気が差し、プロダクションを離れフリーのバンドを結成したが、当てにしていた仕事は取れず、あえなく解散。再起までの間、食いつなぐために始めたのが吉野家でのアルバイトだった。

ある時、安部は店長から、本社で適性検査を受けてこいと命じられた。この適性検査が松田社長が編み出したアルバイトを社員にする仕組みだった。安部は自著『吉野家 もっと挑戦しろ! もっと恥をかけ』(廣済堂出版)の中でこう説明している。