――それでも仕事を替えることは、考えなかったのでしょうか。

杉田 他の仕事は考えられませんでした。僕は優秀な記者でもなんでもないですけれども、政治の取材をやってみたら、すごく面白かったんですね。“伝える”ことは天職にも思っていたので、なんとかして続けたい一心でした。

 政治部を離れた後のビジョンは何もなかったのですが、上司が、内勤で成立し、かつ政治にも詳しいからということで僕を「選挙プロジェクト」という部署に配置してくれ、今も選挙に関わる仕事を続けています。

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 でも内勤は外にいるよりも、もっと目を使うともいえる。いよいよ、目をパソコン画面にこすりつけても文字が見えなくなってきた頃、僕の横に座っていた同僚が「これを使ってみたら?」と、拡大鏡のアプリを教えてくれました。それを使った時の衝撃は今も忘れられませんね。「助かった……!」と思いました。

©三宅史郎/文藝春秋

「できない」と嘆いているだけじゃ、何もできるようにはならない。同時に、普段は寡黙な同僚のさり気ないアシストに、“思いやり”というのはこういうことかと身に沁みました。

自分が障害者であることを認めたくなかった

――その頃、キャリアの捉え方は変化していましたか。

杉田 いつまでこの会社にいられるんだろうというモヤモヤは、消えませんでした。拡大鏡アプリを使っても見えなくなり、今は文章を読み上げてくれる音声を活用しています。白杖を持つようになったのは5、6年前からですね。本当にギリギリまで持ちたくなかったんです。

 障害者手帳ももらいたくなかった。緑内障はあくまでも後天的に発症した深刻な“病気”であって、障害者だという自覚はゼロ。自分が障害者であることを認めたくないという心理があったかもしれません。まだまだ現役世代の年齢で社会福祉のお世話になることに抵抗もありました。

――手帳をもらうまでに、どれぐらいかかったのでしょうか。

杉田 何年もかかりました。

 いざ手帳をもらうと、「自分は障害者である」ということを職場のみんなに言ってまわりました。わざわざ言うことでもないんだけど、その時はなんだか言わなくちゃいけないことのように思い込んで……。でも、いい意味で誰も興味ないんですよ(笑)。自分だけが、“人にどう見られるか”を意識していたというわけです。