同書によれば、発明に熱中して一切妻をいたわらない佐吉に対し、たみは「いやなひと」「村へ帰ろうかしら」とこぼした。しかし佐吉は「発明は俺の一生をかけた大仕事だ。辛抱してくれ」と言い放ち、「理解のないものは駄目だ」と顧みなかった。

たみは心の底で「発明気違い(原文ママ)なんかと結婚して、馬鹿をみた」と恨んでいたという。

決定的だったのは、翌1894年(明治27年)の長男・喜一郎(後のトヨタ自動車創業者)の誕生時である。研究と金策のために家を空け、豊橋や名古屋を放浪していた佐吉は、訪問先でたみの兄から「あんたが家出してから、あんたの子どもが生れたの知ってるかえ」と問われ、「えっ、子ども」と驚愕したと伝わる。

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イノベーションの土台にあった家族の犠牲

激怒した義兄から「妻を捨てて家出する人に、妹はやれぬ。離縁してくれ」と突きつけられ、ついに離婚が成立。生後間もない我が子の誕生すら知らないほど、佐吉の頭の中は発明のことで埋め尽くされていたのである。

地元・湖西市にある日蓮宗妙立寺の佐吉の墓の近くには、幼子を残して実家に帰り、その後横浜や神戸の外国人住宅で働いたと伝わる前妻・たみの質素な墓が、ひっそりと残されている。

残された長男・喜一郎の幼少期もまた、孤独なものだった。他ならぬトヨタ自動車歴史文化部が企画した『豊田喜一郎伝』には、当時の喜一郎が「牛乳によって育てられ、おなかをよくこわした」「遊び相手も乏しかった」と記されている。

父親不在の中で育った彼は、「何事も黙って我慢することを覚えるようになった」といい、目立つ言動も少なくエピソードに乏しい少年時代を過ごした。その孤独な少年が、後に「トヨタ自動車」という世界企業を一から立ち上げることになる。佐吉の「執念」は、息子の沈黙の中にも静かに受け継がれていたのかもしれない。

世界的なイノベーションの土台には、こうした家族の犠牲が横たわっていたのである。