再婚相手は念入りに調査

自らの変人ぶりで愛想をつかされて妻を失い、周囲から奇異の目で見られ、借金取りに追われる。なぜ、佐吉はそこまでして発明に執着したのか。それは「人間の頭の中から是れまで世の中に無い物を考え出す。何か一つお国の為になるものを」という、極めて純粋で強烈な利他心があったからだ。

理想と現実の過酷なギャップについて、佐吉自身は後に著した『発明私記』の中で、己の血の滲むような人生を次のように総括している。

「研究考案には金がかかる。昔から発明家はことごとく貧乏で、人情は離反し、果ては虐げられる。あらゆる人間の悲哀をなめ尽くした後に待望は成就する」

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自らを襲う状況を「人間の悲哀」と自覚し、自らの身でなめ尽くしながらも、彼は決して歩みを止めることはできなかった。

そんな悲運の男にも、ついに運命の転機が訪れる。1897年(明治30年)、吉津村の旧家に生まれた林浅子との再婚である。『遠州偉人伝』によれば、佐吉は何も調べずに結婚した前回の失敗を繰り返さないため、今度は「発明に対するような熱心さで、いろいろ細かく調査」して相手を選んだという。

窮地を救ったのは三井物産

佐吉より10歳若い浅子は彼の良き理解者となり、有能な手腕で事業を切り盛りするだけでなく、「喜一郎を引き取りましょう」と提案し、彼に熱心な教育を施した。

佐吉自身は息子の進学に消極的だったが、浅子が旧制二高から東京帝大工学部へと進学させたことで、喜一郎は後に自動車事業参入を決断するだけの見識を得ることになる。

さらに、転機となったのは43歳のときである。佐吉は自分の特許と設備を出資して会社を立ち上げたが、利益優先の経営陣と衝突し、自ら生み出した発明ごと会社を追われた。

「発明生活の一生を誤りたる痛恨事」と深く悔いた佐吉に手を差し伸べたのが三井物産だった。同社後押しもあり、佐吉は8カ月間にわたり世界の紡績業を視察して回り、自信を取り戻す。

「米国は細かい点が行き届かない。英国は労働問題が多い。恐るるに足らず」――この言葉が示すように、世界を自分の目で見た佐吉は、帰国後、独立資本で織布工場(のちの豊田紡織)を立ち上げた。