軍事施設は何に姿を変えたのか?

 体育館の脇を過ぎてしばらく歩くと、赤羽台二丁目の交差点に出る。廃線跡と交差する都道には錆びついて閉鎖されている歩道橋が架かっていた。桐ヶ丘赤羽台歩道橋。このあたりもまだ、桐ヶ丘都営住宅のエリアなのだ。

 
 

 そして東側には、日本住宅公団(現在のUR都市機構)の赤羽台団地が広がっている。こちらはすでに建て替えられて、現在はヌーヴェル赤羽台というらしい。

 つまり、かつての軍用路線の廃線跡は、赤羽の高台に開発された戦後の団地・都営住宅の中を通っているのだ。そしてこれらの住宅ゾーン、お察しの通りすべてかつては軍事施設が置かれていた。

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 赤羽駅西口の高台、赤羽台が軍都となったのは、明治初期からだ。1872年には現在の桐ヶ丘都営住宅の場所に赤羽火薬庫が設けられ、1887年には第一師団工兵第一大隊や近衛工兵大隊が置かれた。

 さらに1919年には、両国から陸軍被服本廠が移転してきた。その場所が、現在の赤羽台団地一帯だ。

 

 ちなみに、両国にあった陸軍被服本廠跡地はしばらく空き地のまま放置され、関東大震災では期せずして住民たちの避難場所になった。が、そこに火災旋風が襲い、約4万人の避難民のうち3万8000人の命が失われるという悲劇の舞台になっている。

 話を赤羽に戻そう。陸軍被服本廠の移転に先立つ1902年、廃線の目的地であった東京陸軍兵器補給廠が設置されている(設置時は陸軍板橋兵器庫)。

 火薬庫や被服本廠よりはやや赤羽駅から離れていて、どちらかというと現在の都営三田線板橋本町駅のほうが近い。ただ、もちろん当時は都営三田線などはないわけで、赤羽駅からの輸送手段確立は欠かせなかった。

 

 そこで1907年に用地買収が始まって、1908年に運行を開始したのが東京陸軍兵器補給廠専用線、現在の赤羽緑道公園の廃線跡なのである。