終戦後は米軍に使われた?

 古い地図を見ると、東京陸軍兵器補給廠だけでなく、赤羽台団地の場所にあった被服本廠にも支線が延びていたようだ。

 赤羽駅東口に広がる“せんべろ”の繁華街。そのルーツは、台地の上で働く将兵たちや東口に開設された日本製麻の工場で働く職人たちの憩いの場。

 

 専用線は軍需物資の輸送がその役割だったが、将兵が赤羽の飲み屋街に繰り出すときにも使われたのかもしれない。

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 これらの軍事施設は終戦後、すべて連合軍に接収されて米軍の施設として使われた。いちおう、専用線は終戦とともに運行を休止した、ということになっているが、米軍が何度か列車を走らせていたという説もあるらしい。

 

 そして接収が解除され、軍都・赤羽の施設はすべて返還された。その跡地に建設されたのが、巨大な団地群なのだ。

3000戸を超えるマンモス団地

 1950年代には桐ヶ丘都営住宅が先行して建設されて入居がはじまり、少し遅れて1962年に赤羽台団地が完成する。

 

 赤羽台団地は東京23区内では初めてとなる、3000戸を超えるマンモス団地だ。その後、あちこちに建設された公団住宅の原点、モデルケースになっている。赤羽台団地は、戦後日本の住宅事情を大きく変える、エポックメーキングになったのである。

 そんな歴史的な団地の脇を抜けてきた廃線跡の緑道公園は、赤羽自然観察公園の前で途切れる。このあたりには小さなプラットホームもあった。

 

 緑道が整備されたのは1990年代以降のこと。1980年頃までは、かなり明瞭に廃線跡やプラットホームも残っていたという。が、さすがにいまやほとんど痕跡は残っていない。

 そして、ここから先は緑道ではなく町の中。市街地や道路、路地となって廃線跡は続いてゆく。