「間に合わなかった」関ケ原の戦いで、異例の40万石の加増
――第3巻で描かれる関ケ原の戦いでは、利長が実質的には「間に合わなかった」にもかかわらず、家康から加増を受けてのちの「加賀百万石」の礎ともなりました。
安部:関ケ原の前は80万石で、その後40万石加増されて120万石になるわけだから、「関ケ原には間に合わないのに、石高を1.5倍にしてもらったのは何故だろう?」という話ですよね。ただ、そこには特別な事情があったはずで、家康と利長の非常に大きな信頼関係、あるいは国家経営に対する見方が一致していたことが大きいと思います。
利長がいち早く家康に応じて挙兵して、実際に大聖寺城を攻め落としたのが8月3日のことで、おそらく関ケ原の戦いにおける東軍勝利の例としてはもっとも早い。加賀前田家が動いたおかげで、越前あたりの大名たちが西軍のために有効に動けなかった。もし利長が石田三成の側に付いていたら、おそらく家康は勝てなかっただろうし、全く違う状況になっていたでしょう。
――利長と三成の関係は第2巻のあたりから距離があるような気がしていましたが?
安部:そうですね。関ケ原といえばこれまでは、豊臣政権を奪い取るために家康が仕掛けて、それを防ごうとして三成たちが立ち上がったという評価が一般的だし、今もドラマではそう描かれることが多いのですが、僕はそれを根本的に見直すべきだと思っているんです。
家康が考えていた国家ビジョンと豊臣家の国家ビジョンは全く違う。家康の国家ビジョンは農本主義的・分権主義的で、東国大名たちがそれを支持した。言うなれば鎌倉幕府・室町幕府の守護領国制に近い。ところが信長・秀吉が取ったのは、大名を国司のように使う中央集権化・官僚化の路線。全国で検地や刀狩り政策が行われたことがその最大の特徴です。
三成たちは朝鮮出兵で大きな失敗をしたので、多少の修正はするにしても、基本的には中央集権重商主義でいくという方針だった。一方、家康たちは地方分権、農本主義でいくと――簡単にモデル化すればそういうことで、利長は家康の考え方に共鳴していたからこそ、天下分け目の関ケ原の後で120万石を与えられたのでしょう。(2回目に続く)
安部龍太郎(あべ・りゅうたろう)
1955年福岡県八女市(旧・黒木町)生まれ。久留米工業高等専門学校機械工学科卒。東京都大田区役所に就職、後に図書館司書を務める。その間に数々の新人賞に応募し「師直の恋」で佳作となる。90年『血の日本史』でデビュー。2005年『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞を受賞。13年『等伯』で直木賞受賞。作品に『関ヶ原連判状』『信長燃ゆ』『迷宮の月』『ふりさけ見れば』『ふたりの祖国』など多数。
INFORMATION
※安部龍太郎さんによる加賀前田家三代の決定版『銀嶺のかなた』の完結を記念したサイン会は、2026年6月14日(日)に作品の舞台となった金沢、富山の2か所で開催されます。
