まわりは死ぬ気で頑張っていた
――他の奨励会員は、もっと努力していたのでしょうか。
磯谷 みんな死ぬ気で頑張っていました。お昼休憩の時間にも詰将棋を解いたり、棋譜用紙に指した将棋を記録したり、寸暇を惜しんで将棋に向き合っていました。それがわかったことが奨励会に入って良かったことです。
退会した後も諦めることはできず、高2でもう一度、奨励会を受験しました。
――奨励会試験で大島綾華女流二段と対局し、5回千日手の死闘になったという有名な話ですね。平手のみの6級受験ができるのは15歳までなので、駒落ちありだったのではないでしょうか。
磯谷 そうですね。香落ちありの4級受験だったと思います。ほとんどが小中学生の6級受験で、高2での受験は私と大島さん、もう1人の男子の3人だけでした。
大島さんとは2次試験進出をかけた1次試験の最終局で当たり、私が負けて不合格でした。また幹事の先生の前で泣いてしまい、「負けて泣くのは強くなる」と励ましてもらいましたね。
大島さんも2次試験は突破できず、もう1人の男子は合格し、今は奨励会三段です。
――奨励会に入る前の13歳、中2の時に東海研修会でC1クラスに昇級し、当時の女流棋士3級の資格を獲得しています。申請さえすれば女流棋士3級になれたわけですが、女流棋士になることは考えていなかったのでしょうか。
磯谷 私自身は奨励会しか考えていなくて、山崎先生にも「女流棋士になるのはダメ」と言われていました。
中学生の頃の私は人見知りで、人前で話すなんてとても無理という状態で。10年前は今と違って、白玲戦も清麗戦もありません。女流棋士としてやっていくにはすごく強いか、対局以外の仕事をうまくたくさんこなすか、どちらかだったと思います。
当時の私はどちらでもなく、山崎先生も心配だったのだと思います。
進学を機に上京し、将棋に没頭する生活に
――2021年の春、大学進学時に東京に引っ越しされました。これは大きな転機になりましたか。
磯谷 東京にはたくさん人がいて、御徒町将棋センター、将棋サロン荻窪など、強い人が集まるような道場もある。実戦派の私にとって大きなことでした。
国士舘大学の理工学部に入学して、最初は大学に近い世田谷で1人暮らしをしていました。インカレ参加で早稲田大学将棋部に入れてもらい、同学年の川島滉生さん(2022年に学生名人)などの強い人に将棋を教えてもらって、大学生の大会にも出ました。
他にも強い人が集まる研究会に参加するようになりました。そして、1年生の夏休みに鈴木環那先生(女流三段)に出会い、連絡先を交換して、お誘いいただけるようになりました。




