正体不明の奇病として大混乱に
残念ながら、いつ、どのようなルートで日本に侵入したのかは、厳密にはいまも特定されていない。だが、その全貌を解き明かす一級の手がかりがある。当時の内務省衛生局が大流行の終息後にまとめた一大報告書『流行性感冒』だ。
この公式記録によると、日本におけるスペイン・インフルエンザの襲来は大きく分けて3度あったことがわかっている。
「第1回目」は1918(大正7)年8月から1919(大正8)年7月にかけてのことだった。流行の端緒は8月下旬とされ、9月上旬にはじわじわと勢力を拡大。そして11月、ついに爆発的なピークを迎えることとなる。
日本に歴史人口学を導入したことで知られる経済学者・速水融氏は、流行時の新聞記事をつぶさに検証し、スペイン・インフルエンザの動向を調査している。
その研究によると、流行の初期、この病は正体不明の奇病として世間を騒がせたという。例えば、当時の新聞「新愛知」(大正7年9月20日付)の紙面には、「日紡大垣工場に奇病発生」という不穏な見出しが躍っている。
記事では、患者たちが激しい熱を出し、3日から7日ほど苦悶する様子を伝えていた。この時点で「流行性感冒」の可能性も疑われてはいたものの、紙面では「命を落とすまでには至らない」と報じられている。
しかし、その見通しはあまりにも甘かった。
のちに内務省衛生局がまとめた統計によると、この「第1回目」における総患者数は、当時の日本の人口の4割近くに相当する約2116万8000人に達している。さらに、当初は死なない病と目されていたにも関わらず、死亡者数約25万7000人にものぼったのである。
48人が死亡した軍艦内での集団感染
日本国内での流行と時を同じくして、洋上の孤立した軍艦でも悲劇が起きていた。速水氏が「日本語で残された最も詳細な資料」として挙げる、軍艦「矢矧」の戦時日誌に記された事件である。
1918(大正7)年11月、長期の海外任務を終えた矢矧は、帰国に先立ちシンガポールに約3週間停泊した。当時、現地での流行は終息期にあったとみられ、同月21日及び22日、艦長から乗組員に街への上陸が許可される。
すると24日、乗組員のうち4人が感染。それから発熱者が続出したものの、軽い風邪と楽観視されてしまう。そして、矢矧は30日に患者を乗せたままシンガポールを出航し、フィリピンへ向かってしまったのだ。
軍艦が洋上に出ると、すぐに事態は急変した。隔離が不可能なほど患者が激増し、機関員や軍医、さらには食事を作る兵までもが次々と倒れ、艦内は機能停止寸前に陥ったのだ。
快速を誇った軍艦の速度は落ち、食事すらまともに用意できない極限状態の中、12月4日、ついに死亡者が出る。翌日、矢矧はようやくフィリピンのマニラに到着。急ぎ病院へ重症者を移送したものの、容体が急変して死亡する乗組員が相次いだ。
翌年1月に事態は辛うじて沈静化し、矢矧は呉へ帰投した。だが、乗組員総数469人に対して最終的な感染者数は408人、死亡者は48人にのぼるという大規模集団感染となった。
このように、稀に見るひどい被害を出した「第1回」流行だったが、のちに内務省衛生局は「死亡率は比較的に低かった」と総括している。なぜなら、その後に到来した「第2回」の死亡率はもっと高かったからだ。

