日本各地で報じられた「一家全滅」の悲劇

「第2回」は、1919(大正8)年9月から1920(大正9)年7月にかけてのこと。まだ「第1回」の病原体が国内に残存する中、気候の変化によって呼吸器を痛める人が増えたことで、流行に再び火がついたとされる。

 患者の多くは「第1回」を辛うじて免れていた人々だった。彼らはウイルスへの免疫を持たなかったため、ひとたび感染すると一気に重症化する傾向があったようだ。

 この「第2回」では、「一家全滅」という凄惨な事例が相次いで報じられている。

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当時の予防ポスター(内務省衛生局編『流行性感冒』所収/国立国会図書館デジタルコレクションより)

 例えば、「鹿児島新聞」では「一家五人皆鬼籍に」という痛ましい見出しを掲載。元旦から1月4日までのわずか数日間のうちに、幼い子ども3人とその父母が、病床に枕を並べて次々と息を引き取ったという新年の悲劇を伝えていた。

 さらに、医療の手が届かない辺境の地では、より過酷な地獄絵図が広がっていた。

 北方の千島列島・択捉島では、100人余りの村民が同時に病床に伏し、次々と死亡。死体を入れる棺桶すら底を突き、遺体は山積みにされて火葬されたという。

 その上、村民たちは「どうせ自分たちも早晩死ぬのだろう」と諦め、蓄えていた食糧をすべて食べ尽くしてしまった。その結果、生き残った人々が今度は深刻な餓死の恐怖に脅かされるという、二重の悲劇に見舞われたのである。

 最終的な統計を見ると、「第2回」の総患者数は約241万2000人と、「第1回」の約10分の1に過ぎない。しかし、死亡者数は約12万7000人にのぼり、死亡率は5.29%と、「第1回」の4倍以上に跳ね上がったのだ。

国内での累計死亡者数は…

 日本における最後の波となった「第3回」は、1920(大正9)年8月から1921(大正10)年7月にかけて訪れた。

 しかし、この頃になるとウイルスは目に見えて衰え、症状は普通のかぜと区別がつかない程度に変化。総患者数も約22万4000人と激減。この段階でスペイン・インフルエンザは、毎年のようにやってくる季節性インフルエンザへと移行し、収束していったとみられている。

 こうして足かけ3年にわたり日本を揺るがしたパンデミックは幕を閉じた。内務省衛生局の報告によると、国内の累計死亡者数は約38万9000人とされている。

 実際には、さらに多くの人が亡くなったのではないかという研究もある。前述の速水氏は、平年の死亡者数との差から算出する「超過死亡」という統計概念を用い、実際は当時の日本内地だけで45万3,000人以上にのぼったという試算を導き出している。

 日露戦争での日本側の戦死者数が約8万5000人であったことと比較しても、この45万人という数字がいかに凄まじいものであったかがよくわかるだろう。

 それほどまでに多くの命が失われ、日本中が悲嘆に暮れたにも関わらず、なぜスペイン・インフルエンザは人々の記憶から消え去り、“忘れられた感染病”となってしまったのだろうか。(つづく)

次の記事に続く 《世界人口の4分の1が感染》スペインかぜの大流行は、なぜ忘れられたのか? ウイルスの脅威と“二つの世界大戦”の奇妙な関係

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