さあ、ルールは簡単。優秀たれ、出し抜け、成功せよ、そして生き残れ。洋の東西も、政治的イデオロギーも関係ない、資本主義でも共産主義でも結局はそれぞれに「弱肉強食」と題名のついた競争の始まりだ。
あなたの出生児の体重は、隣の赤ん坊よりも重かったか軽かったか? ミルクの飲みっぷりは将来を期待させる勢いを見せているか? 首が据わったり、立ち上がったり歩いたりは順調か?
そんな愛らしく無邪気な生育過程にすら、優劣がつき、順番がつき、「あの子はこういう子」と評価がついて、個人が形成されてくる。天上天下唯我独尊だなんて言い出さない(つまり、釈迦じゃない)普通の赤ん坊の人生は、他者評価を背負って滑り出す。万人に平等なゴール、すなわち肉体の死へと一直線に向かって。
でもそんな人生マラソンみたいなゲームに参加するって、そもそもワタシ同意署名しましたっけ?
頑張らない生き方は許してもらえないのか
それが著者の言う、生まれたときにはすでに始まっている「理不尽なクソゲー」なのだ。子どもの数が多すぎて、幼少期から志望者を落とすための試験ばかりずっと受け続ける中で人格形成をし、競争が染みついた私自身にも「理不尽」の部分には大いに心当たりがある。
周りの、誠実に努力し続ける優れた人々を見回しても思う。なんでこんなふうに、「生きるとは頑張ること」なのだろうか。頑張らないという生き方は許してもらえないのだろうか。
東大生の親の平均年収は実は高い、なんて調査がたくさんあって、昨今の日本じゃ「親ガチャ」という、そもそも生まれ落ちる時に引き当てた親のスペックで子どもの可能性がはじめから限定されているとの言説も有力だ。
そして私は、子育てのいわゆる「遺伝か環境か」議論に照らしても、「親ガチャ」は一定の真理であると頷かざるを得ない。心身のレシピである遺伝子を直接的に提供するのも親、間接的に生育環境を提供するのも、結局親(がダメならその親を救済する周辺の大人たち)だからだ。