誰もが頼朝より、政子の嫉妬を怖れた。頼朝は懲りずに浮気を繰り返し、御所の侍女に貞暁という男児を産ませる。嫡男・頼家の4つ下にあたる異母弟だが、7歳になった建久3年(1192)に乳母を決めようとすると、政子の嫉妬を恐れてことごとく辞退され、人選に苦慮したという。

 人目を憚るように育てられた貞暁は、のちに出家し、ひっそりと生きた。

「亀の前事件」と同じ年にあった浮気未遂

 政子の恐妻ぶりはその後、さらに増幅され、猛女・悪妻といった評価につながっていくのだが、近年は単なる恐妻と論じることもできない。

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 歴史学者の野村育世は、新聞社のインタビューにこう答えている。

「頼朝が存命中は頼朝と御家人をつなぎ、戦乱の中で残された女性を保護するなど、政子は幕府運営に関わりました。頼朝没後は家長権を行使する後家として表舞台に登場。武士を支配し、一つの政権としてまとめていく。彼女は『将軍』だったのです」(朝日新聞デジタル2023・3・20)

 事実、『吾妻鏡』は3代将軍・源実朝が死去してから6年間の将軍不在時期に、政子を「鎌倉殿」つまり実質的に将軍だったと明記している。もちろん政子1人では無理だったろうが、弟の鎌倉幕府第2代執権・北条義時らが補佐した。

『吾妻鏡』が亀の前事件をあえて記したのは、むしろ後妻打ちは当時の風習として道理にかなっており、のちの尼将軍・政子は自己の有する権利を正当に行使しただけであると、主張したかったのではなかろうか。

 ちなみに「亀の前事件」と同じ年、頼朝はもう1つの浮気未遂を起こしている。