「速さ」と「余裕」の両立

 とはいえ、『急に具合が悪くなる』の、親しくなったのちにふたりに起こる「急さ」も含めてのこうした「速さ」は、映画が終わった後、改めて全体を俯瞰して了解できるもので、少なくとも筆者のなかでは、「展開が急すぎる」というように、鑑賞中に同時的に疑問が生ずることはなかった。

 なぜだろうか。当初は、真理の余命が限られている以上、彼女、ひいては彼女に接する人々は、ある程度スピード感をもって話したり、物事を進めざるを得ない側面があるからだ、と考えていた。つまり、「急に」話が進む必然性が、人物の設定によって担保されるという意味だが、改めて映画に目を凝らす中で、それは違う、と考えるようになった。

映画『急に具合が悪くなる』

 むしろ大きいのは、全体に、余裕を重んじる姿勢が感じられることである。

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 たとえば、介護施設でのさまざまなシーンである。先ほども少し触れたが、『急に具合が悪くなる』においては、「ユマニチュード」という介護技術がひとつの軸となる。プレス資料を参照すれば、「ケアを受ける人を『対象』ではなく、感情や意思を持つひとりの『人間』として捉える姿勢を明確にした」技法である。素人目線からは、介護の対象者に時間をかけて丁寧に向き合う技法と呼べそうだが、じっさいに映画のなかでは、マリー゠ルーが入居者たちの手をゆっくりと取り、目を見て話しかけるような動作はそれぞれに印象的で、また入居者と職員たちが、背中を寄せ合ってくつろぐような場面も印象に残る。こうした作中にちりばめられた寄り添いの場面は、多くの「速さ」がもたらす切迫感とは対照的で、それだけに、映画には不思議な余裕が生まれることとなる。

映画『急に具合が悪くなる』

 また、ふたりの交わす会話である。先ほども触れたように、真理とマリー゠ルーの社会の構造を探るような会話にはそれぞれ知的な光が宿るものの、彼女たちの会話は、一定の知性のほか、精神の余裕なしに生まれるものではない。なぜなら、こうした本質をたどるような会話、ひいては思考は、各々の人間が抱える問題への即効薬として解決を提示するものではなく、目の前の効率や、差し迫った問題の解決を意識するなかでは、生起が難しいものであるからだ。