資本主義に毒された社会への否を突き付ける

 抽象的だろうか。しかし、『急に具合が悪くなる』の内容に即せば、ユマニチュードの導入の是非をめぐって、マリー゠ルーとベテランのスタッフである、ソフィ(マリー・ビュネル)が語り合う場面などに「余裕」を持つ難しさの一端が見て取れる。一見、理想的な技術に思えるユマニチュードだが、ソフィをはじめとした少なからぬスタッフからは、導入に難色を示される。なぜなら、ユマニチュードの技術を身に着けるためには各スタッフの研修が必要で、人手不足の現状では、スタッフをそのような学びの時間に充てることが困難であるからだ。マリー゠ルーの説明では、ユマニチュードを全員が身に着けることで、結果的にはスタッフの勤務時間削減にもつながることが強調され、スタッフ、施設の入居者ともに「余裕」が生まれることも示唆される。俯瞰的にとらえるのであれば、マリー゠ルーの主張のほうに理があるのでは、とも思わされるが、しかし、彼女と対立するソフィの発言もまた、施設の人的資源や経済的な限界について、真摯に思考したうえでのものであることが納得され、日常の中では、本質的な「余裕」を実現する難しさを痛感させられる。

映画『急に具合が悪くなる』

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 真理とマリー゠ルーの少なからぬ会話は、観念的で日常から乖離したもののようにも思える。が、しかしむしろ、現代人の日常は余裕が失われた、人間本来の個性を奪いうるものであり、彼女たちの会話は、そうした社会にはっきりと否を突き付けるものであるのだ。「資本主義はプライベートな時間を奪う」といった劇中の言葉や、また振り返れば「健康な者は本当に生きていると言えるのか」という劇のセリフも、このような社会状況へのアンチテーゼとして機能していることがわかる。とりわけ、劇の一つひとつのセリフはそれ自体の完成度の高さもさることながら、映画全体の世界観を鋭く象徴するものにもなりえており、濱口の構築力の高さには舌を巻く。