問題行動の消失
――体調はどう?
「痛くも痒くもない。ただ、なんか離れてる感じ」
――離れてる?
「わかるだろ? 体がこう、離れていく感じ」
父は両手の拳を挙げ、それをゆっくりと左右に離していった。麻酔覚醒時の違和感を表明しており、私はなんとなく理解できた。
「ここは前にも来たことがあるな」
いきなり記憶を辿る父。確かに7年前、母が胃潰瘍になり、この病院に入院していた。父は毎日付き添っており、その病室はすぐ隣だったのだ。
「ところで、これは何だ?」
父は吊り下げられた点滴を指差し、私は「点滴」と答えた。「お父さんの体に栄養を入れている」と説明すると、父は涙ぐんだ。
「ああ、そうなのか。それは素晴らしいな。ありがたいことだよ。床だってほら、こんなにきれいじゃないか」
巡回の看護師が「お目覚めですか?」と入ってくる。体温と血圧を測定し、本人確認のために「お名前は?」「生年月日は?」と問診した。父はすらすらと正確に答え、指で円をつくりOKのサインを出した。最後に彼女が「ここはどこですか?」と問うと、父は私のほうを向いて「根岸の競馬場」と答えた。ジョークを決めたと言いたげだったので、問診ついでに私が「じゃあ100引く7は?」と出題すると、父は微笑んだ。
「懐かしいな、それ。100引く7。107から持っていっちゃうから93でしょ」
初めて聞く正解だった。麻酔が脳のどこかに作用したのだろうか。看護師が去っていくと、父はしみじみとした口調で「ここは男女同権なんだな」と言った。病院では担当の医師も女性で看護師や介護士もほとんど女性だった。
「みんないろんな事情があるんだろうな。俺なんかなんにもわからないのに、こんなによくしてもらえて、本当にありがたい。ありがとう」
そう言いながら父はまどろんだ。ズレていた布団を肩のほうまで引き上げてあげると、父は「もう最高だな。ありがとう、ヒデミネ君」とつぶやいたのである。
認知症が治っている。
私はそう確信した。考えてみれば、体が動くから認知症が問題だったわけで、動けなくなれば問題でなくなる。体が動くからこその「問題行動」であって、動かなければ問題も消えるのだ。自立した生活ができるのかと不安を覚えるから認知症なのであって、病院生活ならみなさんのお世話になる患者である。いつまで続くのかと悲観したから認知症だったわけで、週単位の余命だと宣告されれば毎日が愛おしい。
