描いたこともない漫画に挑戦してみた理由

“詩人”と別れ、シングルマザーになった頃

 晶子も、私が働きゃいいのよ!とバリバリやってしまったのだ。私は晶子と違い、結婚をせずに子どもを身籠り、出産の瞬間シングルマザーになることを選んだ。明治時代に男性並みに働く女性が異質だったように、私の場合も子どもを生んで相手と別れるという行動が世間的には異質だった。子どもができたら普通は結婚でしょ。口を揃えたように周りから言われまくったが、詩人に自分と子どもの生き方を制限されるのはごめんだった。

 油絵で食べていけないのは身に染みるほど実感できたので、いったんはその目的を捨て、子どもを育てるために何か今までとは違う方向へ進まねばならないという切迫感に煽られた。描いたこともない漫画に挑戦してみたのは、それが理由である。

漫画だけで生計を立てるのは厳しく、スキルを活かせることであれば何でもやった

 ただ、初めて描いた漫画で努力賞なる新人用の賞をもらってデビューはできたものの、漫画だけで生計を立てるのは厳しかった。とりあえず子どもを連れて、母が家を建てた北海道へ戻り、地元のイタリア協会の事務局から地方テレビ局の温泉リポーター、三つの大学の講師にイタリア旅行の添乗員、エッセイ執筆、ラジオ番組まで、自分の持てるスキルを活かせることであれば何でもやった。それから5年後、私は14歳の欧州一人旅の際に出会った老人の孫と結婚し(詳細は他のエッセイでどうぞ)、再び子どもと一緒に海外に移住した。

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 ちなみに晶子は講演というものが大の苦手だったそうだ。恥ずかしそうに小声でうつむいて、予め用意した原稿を読んでいたという。行動力は凄まじいのに人見知りというところも、私にも心当たりのあることだと言うと、「あり得ない」「見えすいた噓なんかつかないでくださいよ」と言われそうだが、噓ではない。夫や息子は私の人見知りの側面をよく知っている。