教室のモチベーションを上げ、自らの思考を鍛える即興のトーク
わたしは大学の授業でも、一般むけの講演でも、スライドを使うことがありません。原稿も、ハンドアウトも、メモすらなし。話す内容のコアだけは考えてのぞみますが、質疑メインのものはもちろん、最初から最後までこちらが喋るレクチャーも、すべてその場でライブで喋っています。
これを聞くと、ひとまえで喋った経験がないひとは「準備しろよ」と思うかもしれません。しかし経験があるひとは、むしろ「いや自分には即興で1時間も2時間も喋るのは無理」というリアクションが多いだろうと思います。じっさい、フリーで喋ってると言うと、ほとんど「よく原稿なしでできますね」という反応が返ってくる。
つまり、準備なしで人前に立つというのは、怖いことなんですね。準備しないぶんラクだなんて、とんでもない話です。わたしは毎年同じネタをやることになっている授業も受け持っていますが、これはいちど原稿を準備してしまえば、それを使い回すだけで済むわけです。でもそれをやらずに、あえて即興でやり、なんなら去年も喋ったネタを意識的に封印するなどして、やるたびに違う内容にしています。
ところで、即興で喋るとき、教壇でなにをしているのでしょうか?
それは、その場で考えているのです――というだけでは弱いので、もうすこし強く説明しましょう。これは、思考の過程をリアルタイムで聴衆に晒しているのです。
なぜこうしているか。その理由の一部は、わたしは学力の高い大学で教えていることもあり、学生の要求度が高いからです。優秀な学生は、教科書的な内容の授業だと「これなら自分で本でも読むわい」と判断します。わたしも学生時代、周囲の優秀な学生は、みんな授業の評価がシビアでした。そういう授業は、教員や授業の人気とかいう些細な問題にとどまらず、教室全体のモチベーションが下がってしまうため、よくありません。
ただ、即興で喋るのは、学生のためだけではない。まさしく自分の勉強のためにそうしているのです。
研究者の仕事は論文の執筆・出版です。論文の内容をトーク用にカスタマイズして提示することなど、ぶっちゃけ造作もない。しかし、当然ですが、執筆の裏には膨大な思考のプロセスがあります。そこには紆余曲折があり、試行錯誤があり、淀みがあり、躓きがある。
そしてこれは、最終的な文章においてはノイズとしてカットされてしまう部分です。そうして、あたかも理路整然と結論に至ったかのような錯覚を生みだす。これが執筆によるアウトプットです。それはそれで必要。
しかし、このごちゃごちゃした運動こそが思考の実態なのであり、そこでごちゃごちゃと作動している神経こそが、われわれの知的活動を支えている。これじたいを、ライブという逃げ場のない状況で毎回あらたに立ち上げながら、聴衆にも理解可能なかたちで言語化しつつ、なんとか時間どおりに着地に持っていく――それがわたしにとってのトークです。
つまり、わたしのトークは、準備され整理された情報パッケージの提供ではありません。わたしは喋るたびに、考えるという運動を練習しているのです。それはすなわち、思考のプレゼンテーションにほかなりません。
