仕事でも勉強でも、インプットだけでなくアウトプットの重要性が言われる。しかしいつまでたってもインプットがまだ足りないとインプットに勤しむばかりで、アウトプットに移れない。そんな悩みを抱える人も少なくないのでは? インプットからアウトプットに移るには、真面目さよりも、ある種の愚かさが必要なのだ。「少ない知識量でも安定して大量のアウトプットを続けている」と語る文学研究者の阿部幸大さんが、「インプット」の重要性を再構築するための考え方をガイドする。
「勉強を手に入れたい」。そう願う人の背中を後押しし、着実に階段をのぼるための心構え・道具立てを可能にしてくれるエッセイ連載、第4回目です。
※本連載は『勉強を手に入れる』と題して書籍化される予定です
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アウトプットができないのはインプットをしすぎているからである
インプットだけでなく、アウトプットを実行せよ。これもまた、ビジネスパーソンを中心として、世の学習者がつよく意識させられるようになった命題のひとつでしょう。インプット3にたいして、アウトプット7が黄金比である――どうやって測定するのか知りませんが、そんな話も氾濫しています。
ただ、わたしも物書きですから、アウトプットが重要であることには完全に同意します。というか、なにを隠そう、「アウトプットの比率を高めるべし」という立場をかなり積極的に打ち出してきたひとりです。
ところで、このような「アウトプットも頑張ろう」という話は、「みんなアウトプットを疎かにしている」という現状認識からしか出てこないはずです。では、なにと比較してアウトプットが足りないという認識なのか。もちろん、インプットです。
つまりこれは、「インプットはやっているが、アウトプットが足りてない」というタイプの学習者へのアドバイスです。でも、アウトプットと言ったって、なにをどう発信すればいいのかわからない。この問題意識が共有されたところに、スムーズなアウトプットのためのツールとして、「言語化」が刺さっているのだと思います。
今回は、このインプットとアウトプットの関係に、いささか逆説的な観点から迫ってみたい。本稿の主張は、アウトプットができないのは、インプットしすぎているからである、というものです。あるいは、知りすぎると、書くために必要なある種の勢いが失われていく、そう言ってもいい。
読めば読むほど、知れば知るほど、われわれは書くことから遠ざかる。もちろん、つねにすべてのインプットがアウトプットを妨げるという話ではありません。そうではなく、インプットを増やせば増やすほどアウトプットが増えるわけではないし、なんならインプットのしすぎにはアウトプットを邪魔する側面すらある、ということです。
以下では、アウトプットに悩むひとが、「インプット」の重要性を再構築するための考えかたを書いてみたいと思います。今回は自分の体験談ばかりになりますが、たまにはこういう回もあるということで、ご容赦ください。
アウトプットは知識量に比例しない。知識が増えても論文は書けないのだ
学生時代、わたしは知識量で周囲に完全に遅れをとっていました。そのことに気づいたのは、学部の頃ではなく、研究者をこころざした院生の頃です。
もちろん、ほかにも劣っている資質はいろいろありました。しかし、ともかく知識量がダントツで少なかった。そしてぶっちゃけ、研究者になった現在も、この自己評価は変わっていません。これは謙遜でも自虐でもなく、研究者として、自分の能力の客観的かつ相対的な評価であるつもりです。こんなに知識量が少なくて研究者をやっているひとなんて、そうそういないと思います。
こう感じた理由はいくつかあるのですが、そのひとつは、わたしの研究対象にありました。
わたしは学部から修士にかけて、アメリカの小説家であるトマス・ピンチョンを研究対象に選んでいました。ピンチョンはハンパない博識で、ネットで見つからないような情報をどしどし作中に盛り込む作風で知られています。なので非常に難解な作家でもあるのですが、同時にコアなファンも多く、オンラインで「ピンチョン・ウィキ」なる注釈サイトが発達しているくらいです。一般読者を中心に、元ネタなどを調べまくって共有知として蓄積しているオタクたちが大量についている作家なんですね。
English: Published by Albert Love Enterprises, a publisher based in Atlanta, Georgia. Photographer unknown; probably a work-for-hire employee of Albert Love Enterprises, possibly an employee of the US Navy., Public domain, via Wikimedia Commons
わたしはピンチョン・オタクに知識量では絶対に勝てないだろうという確信がありました。いまからピンチョンについて調べまくったとして、とても追いつけるわけがない。しかし、このことは同時に、わたしをある重要なことに気づかせてもくれました。おわかりだと思うのですが、上述したオタクには論文は書けないのです。
つまり、知識量は、そのまま論文の執筆力にはなりません。知識の量をどんどん増やして、それが他人の知識量を追い抜いたときに論文が発生する、というわけではないのです。
これは論文にかぎった話ではありません。アウトプットは知識量に比例しない。そして、それどころか、大量に仕入れられた知識には、ときにアウトプットを躊躇させる力があるのです。
問題はインプットの効率化ではない、アウトプットに移る勢いだ
文章を書こうとして筆が止まったことのある人なら、心当たりがあるのではないでしょうか。読めば読むほど「すでに誰かが言っている(だろう)」という意識がはたらき、「自分なんかがこんなこと言ってなにになるんだろう」と萎縮してしまう。これが「アウトプットも頑張りたい」と素朴に感じている会社員ならまだしも、研究者にとって、論文が書けないことは命取りです。これはよくある例で、わたしはそれを恐れていました。
この解消方法としては、もちろん、インプットを消化してアウトプットに転化させる効率をいかに上げるかを考える、という方向がありえます。でも今回は、べつの観点からこれを眺めてみたい。
上記の状態はいわば、仕入れた知識が出口を塞いでしまっているという本末転倒な状況です。そしてその閉塞感から、多くのひとは、またインプットに時間を割いてしまう。けれども、インプットをいくら増やしたところで、その出口は開きません。
この状況において問わねばならないのは、インプットの効率化ではなく、ともかくどこかでインプットを停止してアウトプットに移るための勢いです。インプットを切り上げるには、勇気が要る。アウトプットにびびってしまっている状態では、とくにそうです。そしてこれを可能にするために求められる資質は、真面目さや賢明さではありません。

