「生家は長崎の色街にあって・・・」

 有働 本当に、運命の糸に手繰り寄せられるようですね。

 美輪 神様が、筋書きを全部書いて、私はそのシナリオ通りに動かされているにすぎないような、そんな気持ちに時々なります。当時の銀巴里には岡本太郎さん、吉行淳之介さん、野坂昭如さん、安岡章太郎さん、遠藤周作さんなどの天才たちも集まり、私も交流させていただきました。ちょうど1940年代にパリのサンジェルマン・デ・プレ地区のカフェにジャン・コクトーやサルトル、ボーヴォワールらが集い、文化の発信地になったように、当時の銀巴里はその東京版のような雰囲気を持っていたんです。

 有働 反社会どころか、文化の中心にいたわけですね(笑)。小さいころから歌手を目指してたんですか。

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 美輪 いえ、小さいころは日本画を習っていたので、絵描きになりたいと思っていたんです。私の生家は長崎の色街にあって、カフェーや料亭、お風呂屋さんをやっていました。住み込みの女給さんがたくさんいて彼女たちが面白がって、4歳ぐらいの私にいろんな雑誌や文芸本を読ませようとしました。昼間は生家の2階を芸者さんの稽古場として貸していて、常磐津、長唄、端唄、小唄、三味線から、日本舞踊も練習していました。私も彼女たちに習って自然とそんなのを覚えたんですね。だから私が後にドラマで「雪之丞変化」をやったときにも「娘道成寺」なども簡単に踊れちゃった。

ベッドでくつろぐ美輪明宏さん(1957年撮影) ©文藝春秋

 有働 まさに英才教育ですね。

 美輪 生家の目の前が楽器屋兼レコード屋で、クラッシック、ジャズ、シャンソン、タンゴ、流行歌、民謡なんかが1日中プレイヤーから流れていました。又、家の隣りが映画館と芝居小屋で、昔の古い名作の映画をずっと観て育ちました。田村正和さんのお父さんの阪東妻三郎さんや入江たか子さんといった名優が、芝居をしにきたこともありましたね。

※この続きでは、「人類史上最低の髪型」について美輪明宏さんが語っています。約9000字の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(美輪明宏×有働由美子「江戸川乱歩先生は私の腕を包丁で」)。

文藝春秋

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江戸川乱歩先生は私の腕を包丁で
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