1940年に東京市城東区(現・東京都江東区)亀田の朝鮮人部落に生まれた李は、劣悪な環境で育った。粗末なバラックに酒好きで窃盗の前科がある父親と、半聾唖の母。兄弟は自分を含め6人。同居する叔父は前科8犯のスリで、近所付き合いはほとんどなかった。
1944年末の東京大空襲で焼け出され、1946年、李が5歳のとき、一家は千葉県市川市と江戸川を挟み向かい合っている江戸川区篠崎の集落に転居。家はトタン屋根に石を置いただけのバラックで、天井からは裸電球がぶら下がり、壁には雨漏りを防ぐ新聞紙がべったり貼られていた。日本人社会から疎外された朝鮮人部落の中でも孤立していた。後の李の供述によれば、きつねうどん以上に美味しいものを食べたことはなかったという。
学校で成績は1番だったが⋯
小・中学とも教科書は買えず、遠足にも行けなかった。が、IQは135もあり、成績は学年で1番。
生徒会長も務める優秀な生徒で、ゲーテの『ファウスト』やドストエフスキーの『罪と罰』、トルストイの『復活』、メルヴィルの『白鯨』など海外の古典文学を愛読する一方、修学旅行に行けない腹いせに担任教師の腕時計を盗むなど常習的に窃盗を働き保護観察処分も受けていた。
中学卒業後、朝鮮籍による就職差別でどこにも採用されず、兄が経営する鉄工場に就職したものの体調を崩し2ヶ月で退社。1956年4月から墨田区の町工場でプレス工見習いとして働いた。月給5千円は全て家に入れる孝行息子だった一方、同僚女性に後ろから抱きつき叱責を受けたこともあったそうだ。
1958年1月、近所の図書館から好きだった外国文学53冊を盗んだものの、大事にはならず、自転車のベルを作る工場に勤めていた同年4月、小松川高校の定時制に入学。事件を起こすのはその年である。