特攻が計画的作戦だったことを隠していた軍令部

戸髙 特攻の最初の日の経過にもおかしな点があります。

 昭和19(1944)年10月17日、大西瀧治郎が第一航空艦隊の長官になるためにフィリピンに到着する。その時は、まだ長官は寺岡謹平(*1)です。10月20日に辞令が出て、大西が長官になるのです。

*1 寺岡謹平 1891~1948年。海軍中将。海兵40期。空母「蒼龍」艦長、南京政府(汪兆銘政権)軍事顧問、第一航空艦隊司令長官、第三航空艦隊司令長官など

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「大西長官」は20日からなので、特攻の実施は19日の夜に決めたい。なぜなら、20日に長官になってしまうと部下と相談ができなくなる。長官としての物言いは、すべて命令と捉えられるようになる。しかし、19日のうちならば、まだ身分は軍需省航空兵器総局総務局長なので、作戦命令を出す立場にはありません。部下と相談ということにできる。命令して行かせたのではなくて、相談して特攻を志願してもらったという、合意の上で特攻が実施されたのだという理屈が成立するわけです。

大津島の回天記念館 ©beauty_box/イメージマート

 もう一つ、部隊側の特攻の決意を促すための演出もありました。大西に付いていた副官の門司親徳(*2)主計大尉が19日に、まだ長官になっていない大西を他の隊員の前で「長官、長官」と呼んでいるのです。これは、あえて隊員に大西は既に長官であり、大西の発言には従わなければならないという印象を与えるためだと考えられます。

*2 門司親徳 1917~2008年。海軍主計少佐。東京帝国大学卒。1941年、6期短期現役海軍主計科士官として海軍経理学校。戦艦「陸奥」、空母「瑞鶴」乗組、第一航空艦隊副官など。戦後、日本興業銀行復職、丸三証券社長など。著書『空と海の涯で 第一航空艦隊副官の回想』(毎日新聞社、1978年)など

大木 特攻をさせた側の関係者は、皆、生きて帰っています。そういう振る舞いをした門司親徳副官も生き残りました。

 戦後に門司氏は、毎日新聞社から『空と海の涯で 第一航空艦隊副官の回想』(1978年)という回想録を出しています。厳密な史料批判を加えることは必要でしょうが、特攻が始まった日のことを知るには不可欠です。おそらく日記を付けていなければ、あれは書けない。