戸髙 その本をみると、大西が本来「相談」するべき相手の飛行長が出かけていて留守にしていたので、その下の人が対応している。これでは「相談」になるわけがありません。その辺りの言動は、いかがなものかと思います。かなり狡猾と言っていい。

保阪 長らく大西の一存で決めたように言われてきましたが、実はもう軍令部によって特攻作戦実施は決まっていたのですね。

最初の特攻要員はどうしても志願だったことにしたかった

戸髙 「敷島隊」一番機の関行男(*3)はもう寝ていたところを起こされて、「お前、行ってくれないか」と「相談」されたのです。そういう事の流れで「行きます」ということになった。

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*3 関行男 1921~1944年。海軍中佐。海兵70期。台南航空隊、戦闘三〇一飛行隊分隊長など。1944年10月、海軍初の特別攻撃隊である敷島隊指揮官として戦死。死後、二階級特進

保阪 この経緯は、森史朗さんが書いた『敷島隊の五人』(光人社、1995年)に詳しいですよね。

 海軍、軍令部は、「命令して行かせたのではない」という証拠を作るために、かなり腐心していた。推理小説に出て来るアリバイ工作のような話です。軍令部は少し巧妙すぎます。

戸髙 とにかく大西としては、19日のうちに決めなければならない。20日になると命令しなければならない。命令をすれば責任は当然重くなる。軍令部からも、「命令したということにしてくれるな」と出てくるときに言われている。

 最初の特攻隊については、軍令部は出すことは決めていたものの、どうしても志願で行ったことにしたかった。だから、何がなんでも一九日の夜のうちに決めようとした。決定のタイムリミットがあったわけです。

『敷島隊の五人』を読むと分かりますが、関行男は首を縦に振るまで「相談」をされているわけです。