保阪 「命令はしてくれるな」と言ったのは、軍令部総長の永野修身(*4)でしょう。そう言われてしまうと、大西としても何とかせざるを得ない。まさにそういう「命令」なのですから。発表する際の体裁まで整えておこうとしているのですね。
*4 永野修身 1880~1947年。元帥・海軍大将。海兵二八期。海軍陸戦重砲隊中隊長(旅順、日露戦争)、第一遣外艦隊司令官、海軍兵学校長、横須賀鎮守府司令長官、海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長など。戦後、A級戦犯容疑者として東京裁判で審理中に病死。
戸髙 最初の一回だけでも志願だった形にしたかったわけです。そうすれば、世論の同情を買える。また、後に続く者にも影響を及ぼしますから。19日まで一航艦長官だった寺岡謹平の日記にも、「最初の一機は絶対に兵学校卒業者にするべき」という記述があります。
保阪 関行男は新婚でしたから、さらに気の毒でした。良家のお嬢さんに関の方が惚れて、かなり強引な求婚だった。その父親が関を気に入っていたので、結婚がかなったのですから、心残りがあったことでしょう。
関は霞ヶ浦航空隊にいたときにはかなり厳しい教官で、戦場を見る眼にも猛々しさを持っていた。昭和19(1944)年6月のマリアナ沖海戦、「あ号作戦」の翌々日に、関は練習生に向かって「『あ号作戦』の敗北は知っているだろう。もうこうなったら爆弾を抱いて体当たりするしかない。お前らにそれができるか」と話していたそうです。まさか、その一番手に自分がなるとは。
戸髙 関行男を第一航艦直卒の二〇一空に配属した人事自体が、特攻実施が決まっていたことの証明になっています。なぜなら、関はパイロットといっても元来艦上爆撃機のパイロットです。それなのに戦闘機の部隊に配属されている。
特攻機で敵艦に体当たりすることを想定すると、それが分かる。特攻機は、それこそ艦爆のように急降下で突っ込む作戦をやらされるわけです。だから関の辞令が出た瞬間に、もうその時には、体当たり要員として見なされていた可能性が高いと思います。