太平洋戦争の作戦を紐解く上で極めて重要な一次史料である、海軍中将・宇垣纒の陣中日記『戦藻録』。しかし、全15巻の原本のうち、第6巻だけが現在も行方不明となっている。

 実は、この貴重な原本を借り出し、そのまま「なくしてしまった」と言い張った人物がいる。山本五十六に重用され、変人参謀として知られた黒島亀人だ。 なぜ彼は、日記の一部を消し去る必要があったのか? その背景には、黒島自身の「更迭」を巡る海軍内のドロドロとした権力闘争と、帝国海軍の根深い隠蔽体質があった――。

 ここでは、保阪正康氏、戸高一成氏、大木毅氏による『虚構の昭和史 海軍善玉論、石原莞爾名将論の陥穽』(角川新書)の一部を抜粋し、昭和史の闇を紹介する。

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重要資料『戦藻録』に空白部分がある理由

保阪 『戦藻録』は海軍中将宇垣纒(*1)が太平洋戦争期に記した陣中日記で、「大東亜戦争秘記」という副題が付いています。

*1 宇垣纒 1890~1945年。海軍中将。海兵40期。連合艦隊参謀長、第一戦隊司令官、第五航空艦隊司令長官など。敗戦時、自ら特攻に出て戦死。その日記は『戦藻録』(原書房、1968年)として出版されている

 昭和16(1941)年10月16日から昭和20(1945)年8月15日の宇垣の死の直前まで書き続けられました。太平洋戦争における日本海軍作戦の一次史料として極めて重要であり、同時に戦争文学として評価される面もあります。しかし残念なことに、この『戦藻録』原本15冊のうちの第6巻が記録に残される前に失われています。

新漢字・新かな版として現在も販売が続いている『戦藻録』

戸髙 『戦藻録』を遺した宇垣纒は、8月15日の終戦の玉音放送を大分基地で聴いた後、部下を伴って司令長官自ら特攻機で出撃し、戦死します。その出撃の直前まで宇垣が書き、副官の三邊正雄主計大尉に「家族に渡してくれ」と頼んだのです。三邊副官は戦後すぐに宇垣の実兄にあたる宇垣弘一氏にこの日記を届けています。

 その後、この日記は再び海軍に戻りました。戦後に海軍省が改組してできた第二復員省(*2)で「海軍戦史」を作るにあたり、宇垣の『戦藻録』が重要な史料だと借りたのです。宇垣家に借りに行ったのは奥宮正武さんでした。

*2 第二復員省 終戦直後の一九四五年一二月に旧海軍省を改組して設置された行政機関で、主に復員・引揚げ、遺骨収集、掃海などの戦後処理を担当。一九四六年六月に第一復員省と統合され廃止

 奥宮さんは、「自分が直接宇垣弘一さんの所に行って借りてきた、昭和21年の夏で暑かった」と言っていました。まだ、交通事情も食糧事情も悪い中でリュック一つを背負って、宇垣家のある岡山まで行ったわけです。