小川 そういう最先端の言葉のうごめきから最後方に小説っていうのはあるんですよね。『源氏物語』の時代から小説はあるわけですから。流行の最後尾にいるので、「もう皆さん、勝手にやってください!」っていう感じです(笑)。私はここで書いてますからって思っています。

――状況を客観視されている。

小川 まぁそうしないとね。巻き込まれちゃうのもいやだし、よくわからないですしね。

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――いまネットで疑問を書き込むと、AIがそれらしい回答を出してくれます。それを見て分かったような気になってしまう。この「調べなくても、それが正しいかは別にして、簡単に分かってしまう」という状況について、若い人に伝えたいことはありますか? 

小川 そうですね。学問によっては、学者さんの分野では、AIの出現によって、資料を集めたり分類する手間が省けて、発明がすごいスピーディに進められる、ということはあるかもしれないですよね。

 でもそれはごく一部で、人間、まわり道をしている間に貴重なものに出会える。それで、ショートカットでいっちゃうと、必要なものにしか出会えない。

 たとえば、私の場合は取材で現場に行って実際に人の話を聞いたり、風景を眺めていたりすると、こういうことを取材したいってあらかじめ考えていた質問事項が、いかに貧弱だったかって思い知らされるんです。思いもよらない発見がいろいろあって……。最初の小さな設計図がバラバラに崩れて、書いてみたら最初こんな小説になると思わなかったというものになるのが、(情感たっぷりに、しみじみと)楽しいんですよねぇ~! いつもそのパターンです。

――最初思い描いていたようには、自分の思い通りにはいかない。

小川 そうですね。思い通りに行くってことはね、逆に非常にこぢんまりとまとまってしまいます。自分の肉体を現地に運んで、その取材相手の仕事ぶりを見たり、インタビューして声を聴いたり仕草を見たり、着ている服の汚れを見たり、一緒にごはんを食べて雑談したりしているとき、本来の取材の目標じゃなかったものの中に実は、本当に書くべきものが潜んでいますね。

――取材でも普段のときでも、人と相対するときは、相手のどこをご覧になっていますか?

小川 あぁ、そうですね。全体を見つつ、細部も見つつ、言葉も逃さないように、という感じでしょうか。やっぱり、ピンと響いてくる瞬間というのがあるんですよね。その人のちょっとした仕草なのか、言葉なのか、まわりの風景なのか……あ、これは小説に必要だっていうものが分かる瞬間が訪れる。

文藝春秋創設者・菊池寛の像と。文藝春秋のサロンにて。 写真:鈴木七絵

 以前、チェンバロの取材(チェンバロ作りの男女とそれを見つめる女の不思議な関係を描いた小説『やさしい訴え』)に行ったときも、チェンバロをどうやって作るのかという部分にリアリティがないといけないと思って、そのことをチェンバロの工房に取材に行ったんです。そうしたら、工房で食事の用意をしてくださっていて、冬の季節だったので、庭の雪の中に、ワインを冷やしてくれてたんですよ。