当時は、たとえ旅行であっても国民が西側に行かないよう、政府が制限をかけていたのだ。さらにいえば、東ドイツの場合、同じ共産圏である東欧諸国への旅行も自由ではなく、許可や制限を伴うことが多かった。

国民による反政府デモが勢いを増すにつれ、彼らに対応する役人たちは疲れ切っていった。

ドイツの運命を変えた「夕方の記者会見」

(ああ、今日も忙しい)

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1989年11月9日。東ドイツ政府の広報官ギュンター・シャボフスキーは、新たな政令について書かれた紙を、記者会見用に受け取った。

現在17時50分で、会見開始は18時。今日もバタバタだった。急いで会見の現場に向かう彼には、紙を読み込む暇などなかった。

シャボフスキーが会場に着くと、会見が始まった。出席した記者は400人。テレビで放送もするが、特別な場ではなく、ほぼ毎週行なっている定例のものだ。今日もいつもどおり終わる。その場にいた全員が、きっとそう思っていた。

シャボフスキーは、例の紙を開き、内容を伝えていった。紙には、このところ政府で話し合われていた旅行規制の緩和についても書かれていた。

会見の終盤、一人の記者が手を挙げた。

「旅行の自由化は、いつから始まるんですか?」

……えっと、いつだ? シャボフスキーは紙に目を落としたが、具体的な開始日時などは書かれていなかった。一方で、規制緩和の政令文には、「遅滞なく」という文言があった。

「私の知る限り……直ちにです。遅滞なく」

その瞬間、会場がざわめいた。退屈な定例会見かと思いきや、とんだ特ダネだ。今後は、合法的に国境を越えられる地点からなら出国できるらしい。

ということは、もしや。

「ベルリンの壁の検問所からもですか?」

再び質問が飛んだ。これに対し、シャボフスキーはこのように答えた。

「はい、ベルリンの壁を含め、すべての国境通過点からです」

実は、この会見は色々と間違っていた。

発表前の報連相が足らなかった

そもそも、旅行自由化の政令は、まだ成立していなかった。成立のためには閣議決定をする必要があったのだが、11月9日の段階では、閣議に持っていくための関係機関の承認が済んだだけ。