「人はなぜ舞うのだ?」。そんな疑問を抱く少年、鬼夜叉が、のちに能を大成する世阿弥へと成長していく姿を描いたアニメ「ワールド イズ ダンシング」(毎週木曜夜10:00-10:30ほか、TOKYO MXほか/Prime Videoにて地上波先行配信、各種配信サイトでも順次配信。原作は三原和人氏)が絶賛放送中だ。
実は、その世阿弥がトップスターから転落した経験などをもとに書いたのが『風姿花伝』だった……。
原作とアニメの両方で歴史監修を務める清水克行教授が、中世日本のカオスすぎるエピソードを綴った『室町「下剋上」サバイバル』(文藝春秋)より、抜粋して紹介する。
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シェイクスピアと遜色なし
室町時代に能楽を大成させた世阿弥は、同じ劇作家として、よくイギリスのシェイクスピアと並び称される。世阿弥はシェイクスピアより200年前に活動した人物だが、シェイクスピアがその生涯に創作した戯曲が40作ほどであるのに対し、世阿弥が創作・改作した作品も50曲前後。長短はあれど作品数だけをとれば、両者に遜色は無い。
ただし、世阿弥は劇作以外にも芸能論・芸術論をいくつも残しており、その点は独自の演劇論を書き残さなかったシェイクスピアとは対照的だ。なかでも世阿弥の有名な芸能論『風姿花伝』は、現代に生きる僕らが読んでも、十分に感銘をうける内容をもっている。
たとえば、よく僕らが人気の芸能人を語るときに「あの人には花がある」なんて言い方をする。しいて言えば「魅力」とか「個性」とでも訳すしかない芸能関係独特の言葉だが、あの「花」という言葉を最初に使ったのも、世阿弥である。
たとえば『風姿花伝』のなかの、能役者の年齢に応じた修練のあり方について書かれた箇所には、こんなことが書かれている。
12、3歳頃の子役時代は、姿の美しさと声の美しさが揃っていて、なにを演じてもチヤホヤされる。「しかし、この花は本当の花ではない。ただ、この年頃だけに許された一時的な花なのだ」。やがて変声期に入った17、8歳になると、声も身体も変わってきて、どうしても演技が不安定になり、本人も嫌気がさすようになる。だけれども、「一生の分かれ目はここだと自覚して、命がけで能を捨て去らないようにすること以外、稽古の方法は無い」。世阿弥は、役者の本当の「花」は生まれ持ったものではなく、ただ修練によって身につくものだ、と強調する。
だから、やがて34、5歳になると、「能とは何かを悟り、技術的にも熟練すれば、きっと中央でも認められ、名声を得ることができる」。しかし、「それまでに芸を極めていなければ、40歳以後の芸は下り坂となっていくだろう」と、世阿弥はまことに厳しく、修練と工夫の大事さを説く。
現代にも通用する、世阿弥の思想
現代においても、芸能界は浮き沈みが激しい。数ヶ月前まで一世を風靡していたタレントが、本人に何の落ち度があったわけでもないのに、気づけばまったくテレビで見かけなくなるということも珍しくない。そして、次には新たに似たような若手が続々と輩出され、“一発屋”はいつしか忘れ去られていく。
そんななか、すっかりみんなに忘れ去られた元アイドルや元モデルが、数年後に歌唱力や演技力を身につけて本格歌手や本格俳優として“再ブレイク”を果たすのを、ごくまれに目にすることがある。おそらく自分の限界を自覚して、人知れず地道な努力を重ねていたのだろう。世阿弥が理想とするのは、そうした姿勢であって、一時の人気に目が眩んで自分を磨き上げることを忘れた者には将来はない、ということを彼は言いたいのだ。
どうだろう。室町時代人の思想が現代にも通用するという例は極めて少ないのだが、この世阿弥の思想だけは、芸能に限らず、僕らの仕事全般に当てはまる貴重な教訓と言えるのではないだろうか。

