数々のゲーム雑誌が次々と姿を消していく中、なぜ『ファミ通』だけが生き残れたのか――。
1986年の創刊から今年で40年。ゲームファンなら誰もが知る老舗メディアは、ネットの台頭、スマホゲームの爆発的普及、そして深刻な出版不況という激動の波を乗り越えてきた。
ゲーム雑誌『週刊ファミ通』の第7代編集長・嵯峨寛子氏を直撃すると、紙媒体へのこだわり、そして“生き残り”のためのある決断が見えてきた。
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変化を余儀なくされた
ーー創刊の経緯は。ゲーム雑誌としては後発だったとか。
嵯峨寛子(以下、嵯峨) 最初は『ファミコン通信』という名前で、元々はPC向け情報誌『LOGiN(ログイン)』(1982年創刊、2008年休刊)の 1コーナーとしてスタートしました。
そのコーナーが大変好評で創刊につながったと聞いています。ゲーム誌としては後発でしたが、ある時点から隔週から週刊に発売タイミングを変えたんですよね。ゲームの最新情報へのニーズが高まり、「隔週では情報を適切なタイミングでお届けできない」と、当時の編集部が判断したのですが、相当に大変だったようです。
ただ、それを機に、ゲームの最新情報がどんどん『ファミ通』に集まるようになって、ナンバーワンのゲーム雑誌になった、と聞いています。
ーー嵯峨さんが編集部に入ったのはいつ頃のことだったのでしょうか。当時の『ファミ通』の雰囲気について教えてください。
嵯峨 私が最初に所属したのは 2000年代の終わりで、若手の編集者は「面白いことをやりたいな」と思っていたのではないかと思います。影響力の大きさは意識することなく、伸び伸び働いていましたね。
ーー印象的な転換期はありますか。
嵯峨 2000年に立ち上げた「ファミ通.com」でしょうか。立ち上げ当初はニュースリリースを載せることが中心で、手探りでどうにかサイトを作っていただけだったのですが、2010年代、特に後半のころになると、ウェブで新しいゲームについての発表があり、それをメディアがいち早く取り上げようとする状況になりました。つまり速報はウェブが担うようになったんです。「紙媒体はどうする?」という転機ですね。

