同じ頃、陸軍元帥畑俊六の現場への視察に接して敬礼した、とつづるのは少尉候補生の本宮啓である。憔悴(しょうすい)した表情で丁寧に答礼した畑の姿に「もう日本はだめなのか」と直感した。畑は本土決戦に備えて広島に設置された第二総軍の司令官として4月に着任したばかりだった。

あの日は東練兵場にほど近い二葉山(ふたばやま)山麓の公邸の室内にいて傷一つ負わなかったが、続々入る市中の惨状や陸軍高官の安否に関する情報になすすべもなかったことが「陸軍 畑俊六日誌」(『続・現代史資料 4』オンデマンド版、みすず書房、2004年)の「獄中手記」からうかがえる。

口語文にすると「司令部はとりあえず二葉山で掘削中の防空壕で事務を開始したが、今はただ茫然(ぼうぜん)たる状態で誠に情けない次第である」という一節がそうだ。

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任務後に襲った腹痛、下痢、血便

畑はポツダム宣言受諾の御前会議に呼ばれ、受諾はやむを得ない、親衛隊を残せるよう交渉すべきだ、と昭和天皇に進言した人物。

A級戦犯(終身禁錮刑、後に赦免)として巣鴨プリズンに身柄があった1952(昭和27)年には「原爆乙女」の慰問を受け、「当時私は広島の陸軍の最高指揮官だった……私どもが広島にいたばかりに、みなさんをこういう目にあわせました」と頭を下げたという(中国新聞社・編『炎の日から20年』未來社、1966年)。

畑を含むA級戦犯10人が謹慎の意を込めて彼女たちに贈った寄せ書きの色紙が現存している。だが、こうした逸話によって畑を実直な人物だと評することができるのかどうかは僕には分からない。

誰が視察に来ようと、23大隊の隊員たちの多くは命を削るような眼前の任務に徹するしかなかった。疲れきった夜は東練兵場付近に張った天幕で寝たが、目を閉じても悲惨な光景が頭から離れない。風呂はなく飯にも手が出ない。

海風に乗って人や動物の腐乱した臭いが漂ってくる。昼は破裂した水道管の水を飲み、構内の貨車に積まれたニシンを焼いて食べた者もいた。放射能汚染という言葉など知る由もない。9日までの復旧作業を終えて川原石に帰ると、腹痛や下痢に悩まされ、粗末な便槽に血便が散っていた。