「サル化」する社会と「悪の凡庸さ」
内田 共通するのは、過去には興味がないし、これから成し遂げたい未来のビジョンもないということですね。目の前の現実に最適化することだけしか興味がない。だから、長いタイムスパンの中で自己同一性を維持できない。過去の自分も未来の自分ともつながりがない。これを僕は「朝三暮四」の故事になぞらえて「サル化」と呼んでいます。木の実を「朝に三つ、夕に四つやる」と言われて激怒したサルたちに「では朝に四つ、夕は三つ」と言い直したら喜んだという逸話ですが、サルは朝と夕の自分が同一だということがわからない。今しかないから。
時の流れを理解できない人を笑う逸話は春秋戦国時代に多く作られました。「矛盾」も「刻舟求剣」も「守株待兎」もみな「サル」の話です。実際にその時代には「過去も未来もない」という人が生き残っていたのだと思います。だから「時間意識を持て」という教えに緊急性があった。ところが、AI時代に人間は再び「サル化」し始めている。
ブレイディ 最適化に関してさらうに言うと、トランプ政権の2期目になって割と諦めた左派が多いと思うんです。1期目の時はみんなものすごく反発していたのに、2期目になると、もうこの現実はしばらく続くから、この中でどうポジショニングをとってやっていくかいう最適化が行われている。
リフォームUKの躍進を受けてやっぱりイギリスでもそういう論客たちが現れて、全体主義に抗した哲学者ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」という言葉が思い出されます。ナチスが台頭しファシズムが進んでいった時、普通の小市民が最適化して、ジェノサイドに協力していった。システムそのものの悪を疑ってあらがうことなく。悪の凡庸さとは悪政下の「現状最適化」なのです。日英の様子を見ていても、今こそポジション取りではなく抵抗していかないと、取り返しがつかないところまで来ていると切実に感じます。
内田 「日本中学生新聞」を創刊した川中だいじ君のような若いジャーナリストの戦い方がその見本になるように思います。彼は兵庫県知事選挙の時に立花孝志や斎藤元彦も含めて全員にインタビューをして同じ質問をしてから候補者の適否を判断した。あのスタイルはおそらく僕たちの世代の過激派の失敗から学んだのだと思います。僕たちは「まず極端」から入ったけれど、川中君は「まず中立」から入るでしょ。先入観を排して、中間地点からクールに人間を観察することで「過激」になるという新しいモデルです。
ブレイディ それは極中とは似て全く非なる、トラディショナルな意味での中道ですね。右にも左にもウイングを広げて、時間をかけて対話し、吟味するというあり方は。
