インタビューは三時間に及んだ。これ以上は話を聴くのは限界だと判断し、気分を少しでも変えるため、那覇市唯一のビーチである、波の上ビーチを歩いた。
しかし、砂浜の上で遊ぶ真菜さんや莉子ちゃんの姿が蘇り、松永も上原も正気ではいられなかった。私は取材を切り上げた。
家族から深く愛された真菜さんの人生
これほど深く愛された真菜さんはどのような人生を辿ったのか。彼女のルーツを遡ろう。
真菜さんの父、上原義教は一九五七年に那覇市で生を享けた。上原の両親は粟国島出身で、沖縄本島に移住した後に結婚し、七人きょうだいの三番目として上原が生まれた。沖縄は米軍の支配下にあり、この年に琉球列島高等弁務官による統治が始まった。二〇万人余りが亡くなった沖縄戦の爪痕はまだ生々しかった。上原には、那覇の路傍が強く印象に残っている。それは、たくさんの露天商が野菜や果物の腐った部分を切り落とし、販売している姿だった。
上原家は複雑な家庭で、上原は幼稚園に入ってから二人の兄と初めて会った。生活は常に耐乏を強いられ、つらい少年時代だった。小中学生のころは、学校をさぼって川に行き、スッポンを獲って売って一ドルから二ドルの収入を得た。空腹に耐えきれず、新聞配達の仕事の最中、商店の開店前の道ばたに置かれていた食べ物を取ったり、人家の敷地に生えていた果物を食べたりしたこともある。米軍基地へ排水口づたいに侵入したが、憲兵につまみだされた。琉球警察の交番で「殺されても仕方ないぞ」と警察官にぶん殴られた。
沖縄がアメリカから日本に返還された翌年、一九七三年の春、上原は中学校を卒業した。とにかく家を出たくて窒息しそうだった上原は、集団就職の波に乗り、本土に渡った。親戚のツテをたどって大阪府茨木市の中華料理店に住み込み、コックとして三年間ほど修業した。
それから那覇に戻ると、今はなきダイナハ(ダイエー那覇店)の中華料理店で仕事を始めた。
その店で給仕のウェイトレスをしていたのが、上原の一歳下で当時高校生だった喜美子だ。家庭環境に恵まれず、家族の愛情を知らなかった上原にとって、喜美子の笑顔は世界観を変える太陽のようだった。上原は「一目惚れどころではなかった」と振り返る。二人はお互いが成人してから結婚した。
上原は喜美子について「一切、愚痴や悪口を言わなかった。天使のような人だった。私にとっては世界一の優しい女房だった」と追想する。
