「日本へ来て中学に通いはじめたのですが、まもなく太平洋戦争が始まって、授業らしい授業が受けられなくなりました。そこで呉さんは陸軍特別幹部候補生を受験し、通信の課程に合格しています。通信士というのは、爆撃機に乗って機上で無線の送受信を担当する仕事です。どこを爆撃するのかを無線でやりとりする専門職で、通常なら1年かかる過程を8カ月で修了したそうです。呉さんは今でもモールス符号の打ち方を覚えています」(許監督)

 茨城県水戸の陸軍航空通信学校で訓練を受け、卒業後に同じ茨城県の西筑波飛行場へ着任し、滑空飛行第一戦隊に配属された。呉さんは九七式重爆撃機に通信士として搭乗している。

 そして1945年5月末、呉さんは北朝鮮の宣徳飛行場へ派遣されると、まさに激戦中だった沖縄方面を想定した訓練に従事していた。

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特攻隊の募集に「強く志願する」と答えた理由

 しかし戦況は悪化の一途をたどり、特攻隊が編成されることになった。

「隊員は募集制で、志願する人はどういう理由で特攻隊に入りたいのかを詳しく書く必要がありました。『いずれ順番が回ってきて死ぬのなら』と思い呉さんも『強く志願する』に丸をつけました。ところが、呉さんは選ばれなかった。後に同じ戦隊の方の回顧録で分かったのは『家を継ぐ長男は選ばない』という基準があったということでした。呉さんは長男なんです」

 特攻隊に選ばれた者たちは北朝鮮から日本へ戻り、沖縄上空での任務に出る準備をしていたが、呉さんのいた隊が出撃する前に戦争は終わった。彼らの多くは終戦の翌日には解散して故郷へ帰っていったという。そして特攻を免れた呉さんたちは、北朝鮮の地に取り残された。

日本へたどり着いた舞鶴の港へ向かう呉さん ©多面向影像工作室

「もし呉さんが特攻隊に選ばれていたら日本で終戦を迎えて、シベリアへ連れて行かれることはなかったはずです。特攻隊に入った人たちが助かって、入らなかった人たちが北朝鮮からソ連へ送られた。本当に皮肉なことだと思います」

 北朝鮮東部の宣徳で1945年8月15日を迎えた呉さんはその日、天皇の放送があると集合していた。直前にソ連が満洲へ侵攻したことが伝わっており、呉さんはさらなる奮起を促す内容だと思っていた。