日本統治下の台湾に生まれ、日本兵としてソ連に抑留された99歳の呉正男さん。カザフスタンの収容所で2年を過ごしたのち、帰国を告げられた。1947年の夏だった。ドキュメンタリー映画『零下五十度の抑留者』の許明淳監督に話を聞いた。

解放されて船で日本にたどりついた舞鶴を訪れた呉正男さん(右)と許明淳監督 ©多面向影像工作室

 収容所での強制労働の日々は終わりが見えず「帰国できる」という噂が立っては消えていった。呉さんは、自分が帰国を告げられた日付を覚えていないという。

 しかし、列車の中で見る景色は全く違った。捕虜になりカザフスタンへ送られる列車では無期懲役の囚人のような絶望を感じていたが、日本へ帰れると思うと同じはずの景色が全く違って見えたという。10日目に窓の外を見ると、向日葵が咲いていた。

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闇市で働いて生計を立て、大学へ。日本人女性と結婚し息子も生まれた

 呉さんはウラジオストクのさらに東にあるナホトカから第一大拓丸に乗り、舞鶴港に着いたのは1947年の7月12日だった。19歳になっていた。

 日本に帰り着いた呉さんだったが、日本が撤退した台湾は中国本土の勢力と台湾勢力が争っており、父の勧めもあって呉さんは日本に残ることにした。

 親族もいないひとりぼっちの東京で、呉さんは闇市で働いて生計を立て、パチンコ店で働きながら中学に復学し、法政大学へ進んだ。

 卒業して数年後、台湾人の知人の紹介で横浜中華街の信用組合国際興業合作社(のちの信用組合横浜華銀)に就職する。日本人の女性と結婚し、一男をもうけた。

 そして1952年、呉さんは日本国籍を失った。講和条約の発効に伴い、台湾出身者は日本に住んでいる者を含めてすべて日本国籍を喪失する、とされたためである。