日本統治下の台湾に生まれ、日本兵として志願した99歳の呉正男さん。1945年8月に17歳のときに北朝鮮でソ連軍の捕虜になりシベリアへ送られた。

 呉さんたち台湾出身の日本兵の記憶を追うドキュメンタリー映画『零下五十度の抑留者』の監督で、自身も台湾出身である許明淳さんに、“シベリア送り”の過酷な現実について話を聞いた。(全3本の2本目)

台湾出身で日本兵として戦いシベリア抑留を生き延びた呉正男(左)さんを、同じ境遇を生き延びた陳以文さんの孫が訪れた ©多面向影像工作室

 呉さんたち日本兵たちに、ソ連兵は「ダモイ」と言ったという。ダモイとは家に帰るという意味で、つまり「日本に帰す」と言って列車に乗せられたことになる。

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「しかし乗ってしまえば、軍人なのでどちらへ走っているかは進行方向でわかります。日本に帰るなら東へ走るはずの列車が、北へ向かっている。自分たちが違うところへ連れて行かれるのだと察していたはずです。それでもすでに捕虜になっていてソ連側に抵抗する手段は何もありません。日本に向かっていないことが分かっていても行くしかなかった、ということだと思います。呉さん自身も、騙されて列車に乗せられたとは言いませんでした」

「抑留先で自分が死んだら父と母に知らせる人が誰もいない」

 ウラジオストクからカザフスタンまで23日間。9月末か10月の初めだったが、進むにつれて寒さを感じた。

「呉さんの部隊はすでに解散してバラバラに逃げた果てに捕虜になったので、列車のなかに知り合いは一人もいませんでした。ずっと心配していたのは、もし抑留先で自分が死んだら父と母に知らせる人が誰もいないことだった」

許明淳監督

 呉さんが送られた先はカザフスタンで、最も寒い時期でマイナス30度前後になる地域だった。

 収容所の1日は決まっていた。朝5時に起きて8時に強制労働が開始、16時まで働かされ夜は9時に就寝。

 呉さんが主に課されたのは運河を掘る作業だった。シャベルで土を掘り、藁で編んだ籠に入れる。1人が掘り、もう1人が担いで捨てに行く作業を延々と繰り返す。掘るべき長さ、幅、深さが決められ、重たい土を担ぎ続けるうちに呉さんの右肩にはこぶができ、しばらく消えなかった。