収容所では、思想教育も行われた。

 呉さんの収容所でも「働かざる者食うべからず」「天皇制反対」といった標語が掲げられ、外界の情報を知ることができるのも、捕虜向けに発行された『日本新聞』だけだった。

「呉さんは『日本新聞』はありがたかったと言っていました。収容所は物が足りなくて、特に紙がないんです。それで大便のときに困ると『日本新聞』を大事に使わせてもらったと言っていました。拭く前によく読んでみると、書いてあるのは天皇制への批判、アメリカ帝国主義への批判、働かなければ飯を食う資格はないという話、日本は侵略国家だという話。ただ呉さんの収容所ではそれ以上に強烈な思想教育は実施されていなかったようです」

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舞鶴引揚記念館を訪れた呉正男さん ©多面向影像工作室

体調が悪化して病院へ送られ、再会できなかった人も…

 過酷な環境だったが、意外なことに呉さんは収容所のなかで人が死ぬのを見たことがないという。とはいえ、体調が悪化した者は収容所から病院へ送られ、再会できない人もいた。呉さん自身も一度、原因不明の高熱に苦しんだ。

「意識が朦朧としてきて、壁にかかっている帽子が人の顔に見えたそうです。中学時代に一緒に遊んだ、片思いをしていた女の子の顔でした。彼女に会うまでは死ねないという思いが生きていく力になった、あの子は命の恩人だと呉さんはいつも言っていました」

 収容所の中で呉さんだけが恐れていたのが「台湾人だと名乗ること」だった。満洲には共産党の八路軍が多くいて、早い段階で台湾人だと明かしたら台湾ではなく中国へ送られるのではないかと呉さんは考えていた。自身のことを日本人だと信じていた呉さんは、日本に帰れなくなることが何よりも怖かった。日本には我が子のように可愛がってくれた下宿先のおばさんがいて、あの少女がいた。

 しかし抑留されていた2年間、収容所で台湾人に会うことは一度もなかった。

ロシアのバイカル湖 ©多面向影像工作室

 全員が栄養失調で、骨と皮になり、いつか餓死すると思っていた。そのなかで、およそ3カ月ごとに帰国の噂が立った。春になれば夏に帰れると言われ、夏になれば秋、秋になれば冬。そのくり返しだった。

 呉さんはその噂を、悪いものだとは言わない。3カ月ごとに希望を持てたからこそ、もう少し頑張ろう、まだ死ねないと思えた。

 その噂が本当になるのは、1947年の夏である。

次の記事に続く 日本兵として戦ったのに戦後に国籍を剥奪され、支援も対象外に…台湾出身でシベリア抑留を生き抜いた男性(99)が「日本政府を批判したくない」と語る切実な理由

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